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【路地コラム】「なんかいい」って思えなくなってきた……


どうしてこうなった

前回、路地コラム「なんかいい路地botの『なんかいい』とは?」を書き、「これからはこういう『些細なことを深掘りするnote』を定期的に書くぞ〜!」と決意してから、
一回も更新せずに3ヶ月が経ってしまった。
ダラダラしていた訳ではないのだが、転職して仕事に慣れるのに精一杯だったこともあり、プライベートで長い文章を書く余裕が無くなってしまっていたのである。

一つの職場に慣れた後に、転職して入社初日の緊張を再度味わうと、「業務量と疲労度は必ずしも比例しないんだなあ」と再認識することができる。初日なんてほとんど話を聞いてるだけで終わるのに、気疲れで家に帰る頃にはクタクタになってしまった。今は入社当初に比べて仕事も増えて、残業も珍しくなくなってきたが、職場環境に慣れてきたので、あの日より疲れることはない。

なんかいい路地botの運営の方も気づくと丸1日投稿しなかったり、画像提供のDMを確認するのに1ヶ月以上掛かったりと、完全に息絶え絶えになっているが、プライベートでやっていることだし、無理に続けようとして嫌になりたくないので気が向いたら確認をするようにしている。提供してもらっているにも関わらずこんな体たらくで申し訳ないが、長く続けるためのセルフコントロールなので、「まあ続いているだけいいか」とご容赦願いたい。

……と、忙しいアピールのようなことをしてしまったが、これも導入のためである。
そういう(精神的にも肉体的にも)余裕がない時期を経て改めて感じたのが、
「『なんかいい』って、精神状態によっては気付けないな」ということだ。
当然といえば当然かもしれないが、立ち止まって写真を撮るぐらいには好きだったものに、見向きもしなくなってしまうのはやはり寂しい。

一体何故なんだ!
という訳で今回はなんで「なんかいい」と思うのかというテーマでウダウダ書きをする。


「何がありがたいの?」


「ありがたい女性」というTwitterアカウントがある。
6万フォロワーを越える人気アカウントであり、日常生活のなかで些細な”ありがたみ”を発している女性の様子を切り取ったツイートが反響を呼んでいる。ツイートはすべて「〜な女性」というフォーマットに則っている。
百聞は一見にしかず。とりあえず、何個かツイートを紹介する。
みなさんも、こんな女性をどう思うか考えてみてほしい。


さて、あなたは「ありがたい」と思うだろうか。
はたまた、全然ありがたくない?
Twitterの反応を見ていると、結構意見が二分されているように感じる(リプライ欄は「ありがとう」とだけ送るのが習慣化されているようなので、一見そう見えないかもしれないが)。

このアカウントの指す”ありがたい”は、「優しい」「自分を愛してくれる」といった、恋人や他者へ利益を与えるようなものではなく、
本当にただただ女性が日常を過ごす中で、自然に人となりが出ているようなものが多い。
ラブソングでもよくこういう描写があるが、おっちょこちょいだとか、辛いものが食べられないとか、朝が弱くていつも寝ぼけているとか、「それだけで惹かれはしないが、好きな人だったらそんなところまで愛おしい」といったような女性の一面を、このアカウントは切り取っているように受け取れる。

敢えて野暮なことを言うと、「このありがたみ、分かるな〜」という人がこのアカウントを見てとある空想の女性を思い浮かべる時、大抵はなんとなく、自分好みの容姿の女性を想像しているのではないだろうか。故に、そういう偶像を置かないで考える人にとっては、おっちょこちょいでも、朝が弱くても「何がいいの?マイナス要素じゃん」となってしまうのだろう。
実際、普通に生きていく上ではしっかり者で朝が強いに越したことはないのだが、それをもひっくり返して、マイナス要素をありがたがっている場合が当たり前にある。


「ちょっとしたエピソード」

似たような例として、この動画を取り扱う。


オードリー若林さんのファンの女性が、若林さんに関する「ちょっとしたエピソード」に癒される、
という内容である。

この女性が例として挙げたのが、
「車を購入する際、母親に小さい車を勧められたのに、大きい車を買った」
「収録の時に、よくネクタイがずれている」
といったエピソード。
これも当然ながら好きな人だからこそ価値を見出せるものである。

また、そういった話をもっと教えてほしい対して、
春日さんは「ネタ作りの時にモンスターズインクのペンケースを持ってくる」、
市野瀬アナは「番組後の食事会で鍋を取り分けると、話の途中でもありがとうと言ってくれる」というエピソードを紹介していたが、この2つのエピソードはある意味対照的である。性質の違いは言うまでもない。

路地と関係ないような話が続いたが、路地とは関係なくても「なんかいい路地」とはあながち関係ないとも言い切れない。
これを読んでくれている方は、多少なりとも路地に良さを感じている方がほとんどだろうが、ではあなたは何故路地を良いと思うのだろうか?

というのも、路地もまた、私たちに何かしてくれる訳ではない。どんな路地でも道でも、「目的地までのルートとして機能する」という本来の目的があり、それを果たすのみである。
では、「なんかいい路地」って、お金が降ってくる路地なのか?猫が必ず居る路地なのか?通ると寿命が延びる路地なのか?
利益があるから、良いと思ったのだろうか?

「包括的に」愛する


皆さん、好きな映画や小説、アニメはあるだろうか。
音楽でも芸人のネタでもYouTube動画でも、なんでもいい。

私も色々ある。
例えば、『美味しんぼ』アニメ7話。



鰻屋の板前が、同じ鰻屋の若旦那との方向性の違い(詳細は是非本編を見てください)から、酔って刃物を振り回し暴れて、警察に取り押さえられる。
しかし主人公・山岡の知人である中松警部が「俺は蕎麦と鰻が好きだから、ここは俺の胸三寸に収める」と言い出し、山岡と共に板前の再起をサポートし始める、というのが当話の始まりである。
無茶苦茶な話である。
「いや、あんな街中の人混みで刃物を振り回しておいてそうはならんだろ」とツッコミを入れたくなるが、私はこの強引なストーリーの持っていき方が、いかにもちょっと昔の漫画(アニメ)という感じがして実は好きだったりする。

でもこれは、フラットな目で見たら長所でも何でもない、むしろ短所かもしれない。
それでも好きと思えるのは、きっと『美味しんぼ』という作品を包括的に愛しているからではないだろうか。
もしくは、もっと包括的に『昔のアニメ』とか?

路地を「なんかいい」と思う感情も、これと少し重なるところがある。先述の通り、路地は「移動する」という目的を果たす為に使われており、余程の路地マニアでもない限り、「路地を通ること」自体は目的ではなく過程である。お金も降ってこないし、通ったら寿命が延びるなんてこともない。路地を目にする時間は1日の中でも、人生の中でも比較的どうでもいい要素なのかもしれない。
しかしそこに何かを感じられるというのは、とても素敵なことだ。
この世界や、自分の人生を、肯定的に捉えて、包括的に愛していなければ、そんな些細な良さに気づくことはきっとできない。
別に路地でなくても良い。モンスターズインクのペンケースでも、アニメのストーリーの粗でも、道に落ちている軍手でも、一部だけ灯らないネオンサインでも、そういうものに気づき、愛し、ガハハと笑っていられる心の余裕を持っていたい。

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