リキッドとソリッドなもの

 グローバル化して世界が流動的(リキッド)になった。流体は常に隙間を見つけて流れ続けて、その流れによって個体(岩)をも削り取る。
 宗教や人種、イデオロギーが流動化して、人々が持っていた固定化した感覚が削り取られて行く。そこに危機感を持ったのが「トランプ」派だろう。
 流動化した社会を生きる事ができるには、固定化(ソリッド)したモラルを持たない人たちである。ポリシーを持たない事がポリシーである事はリキッド(流動化)な時代には有効に作用するのだ。
 それがポリティカルコレクトネス(例えばクリスマスをハッピーデー!?と呼ぶような)について行けなく程度まで寛容さが失われると、再び流体から固体に変化しようとする。それを願う人が相当数いるのがアメリカだろう(トランプ支持)。
 日本ではアメリカほど流動化していない。むしろ求められるにはソリッド(固体)の間を自由に動く事ができるリキッド(流体)の性質をもった人間だろう。
 日本のような高い同調圧力が働く社会では、個別の圧力を発する固体をすり抜けるような賢さが必要かもしれない。
 人々が持つ道徳と言う共同幻想の枠外で活動する事が、これからの日本の現代社会では必要な感性なのかもしれない。
 日本は今のところソリッドでもリキッドでもどちらを選択しても生きやすい社会である。理由は政治的統合を期待する人々が実は分断を期待し、もともと分断されていると言う事実を知らないからだ(知らないふりをしている)。
 つまり、社会的分断がある前提で既に社会が構築されている。つまり、常にソリッド(固体)のままなのである。そうであるなら、ソリッドを臨む人はそのまま生きれば良いし、固体の隙間を流れるリキッドな生き方も有益な生き方とも言える。
 日本社会は戦後、常に分断が常態化され、それに加えてさらに分断の要素を作り出そうと社会に手を加えてきた。
 もっとも更なる分断を作り出す事に成功すれば、社会の流動化はより加速するはずなのだが(固体をさらに分割し続ければ流体と同じ性質を帯びる)。
 そのような状態になってこそ、今のアメリカの問題が日本人等身大で理解出来るであろう。

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