外出のリスクと向き合う
海外旅行から帰国した若者、多くは大学生のようですが、帰国後に感染が発覚することが多発しています。世間ではこれを非難する論調が目立ってきました。
では、海外旅行や国内旅行もそうですが、人が外出して移動する事のみが責められる行為なのでしょうか。確かに外出しなければ、ウイルスに感染するリスクが減るのは確かでしょう。しかし、事はそう単純ではありません。
まず、人は自己決定において自身の行為を自由に処分したいと本能的に願うものです。出かけたいときに出かけ、家にいたければ家にいるものです。外出の自由を担保する正当な理由を求める事を、ことさら重要視する態度に本能的な嫌悪感が生じてしまうのではないでしょうか。
重要なのは外出しても「病気にならない」工夫をそれぞれの人が適切に実行する事です。でも、考えてみるとこれって「誰もが病気にはなりたくない」と願うものまた人間の本能でもあります。
では、その本能と本能の両立は不可能なのでしょうか。つまり、自由に外出できて病気にならない事を両立するように振る舞うということです。これは決して難しいことではないでしょう。と言うよりも、私たちは日常的にそのように振る舞っています。
何が異なるのでしょうか。それは外出すれば「病気になる」危険性が増しているからです。今は最も懸念されている世界的に大流行している新型コロナに感染する、つまり感染し結果、病気になってしまうと言うことでしょう。
ここは明確に分けて考える必要があります。外出するから病気になる、ではなく外出先には病気になりやすい環境が存在している、そして今は病気になるとしたら流行性感冒の新しい種類の新型コロナウイルスが引き起こす病気にかかるかもしれない。と言う視点です。
つまり、外出の有無が問題なのではなく、外出先で病気にならないように振る舞う、ということです。この様に考えると自らが行う行動の中で、一定の指針のようなものが出来るはずです。大切なのは病気になりそうな行為は慎むと言う事、そして病気にならないようにするとの目標を設定することで、技術的な問題に対応するような行動に変わっていきます。
そのように考えると、外出中に病気にならない(今はコロナウイルスに感染しない)事を目的とする技術的な問題に対する対策への道が開けてくるはずです。その技術的な要素の一番重要な部分が、厚労省の専門家会議で発せられた3つの状態が重なり合う行為を行わないということです。
そして、ここからが重要なのですが、その技術的な事柄が不幸にして成し遂げられなかった場合、これは病気になるリスクは確実に高まります。そして結果、不幸にして病気になった場合、はたして、その人個人を責めるべきなのでしょうか。私はそうは思えません。
病気、今回は新型コロナウイルスに限定したとしましょう。この病気は引き起こすウイルスもはや世界的に日常的に定着したと見るべきでしょう。つまり、撲滅か共存かとの二項対立ではなく、すでに「そこにある」ものなのです。撲滅(制圧ともいうが)はほぼ不可能、さりとて日常的に共存して発症し「病気」なるのも困る。であればどうするか。それは技術的に解決する以外にあまり良い方法がないように思われます。
技術的問題とは最もよく言われてる事ですが、清潔を保つ、手洗いやうがい、清掃、そして健康な生活などでしょう。考えて見れば、これはなにもコロナの騒動だけに限った話しではありません。日常生活全般に言える事でしょう。
とはいえ、もはやこの外出自粛もすでに世界的に受け入れられている行為とも言えるでしょう。ではこれは、いつまでこの様な態度を取り続けるべきなのでしょうか。先ほども述べましたが「そこのある」ものは「あり続ける」事でもあります。それが長引けば長引くほど、人々はストレスを溜め込まざる得ないことになります。その時、もし自分なりの出口を「見よう」と思い立った時、もう一度、病気にならないための技術的な回避方法を確認し、外出と病気の構図を考えてみるのも良いのではないでしょうか。
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