私の3.11

東日本大震災から11年。当時の私が感じていた震災を、今現在の私につながる一つの岐路となる出来事として解釈つきで記録しておきます。
震災それ自体というよりも、私自身のパーソナルな記録となります。

震災、その瞬間。当時、看護の専門学校生だった私は、学校の空き教室でひとり課題に取り組んでいました。急に来たこれまでにない揺れに、「とうとう大地震が来たのか」と、驚きや焦りよりも不思議と納得している自分を覚えています。
幸い、学校や家、家族・友人・親戚には大きな被害はなかったようでした(連絡を取り合う友人がそもそも少ないので、本当のところは分かりませんが)。
ただ、学校内に設置されたテレビの前に同級生らが集まり、その中の岩手を地元に持つ仲間が、津波の映像を泣きながら見ていました。

私はこの半年後、9月頃から本格的になる実習の途中から参加できなくなり、結果的に専門学校を中退することになります。
震災自体が直接、私の進路変更の要因になった訳ではありません。しかし、震災後の異様なムードは私を含め多くの人々に歪みを生んでいたように思います。これまで見ないようにしていた歪みが表れただけかもしれませんが。

震災後、正確な時期は忘れましたが、看護学校ということもあり「被災地ボランティア」の募集が学内にてありました。多くの同級生が参加に手を挙げる中、私は手を挙げようとは思えませんでした。正直、「私なんかが行ったところで何の役に立てるのだろう」「むしろ迷惑なのでは」という自己評価の低さや、「偽善ではないか」というひねくれた考えを持っていました。
今にして思えば、震災とその渦中にいる人を知り、向き合ったり同じ方向を見るためにも、決して無駄にはならない機会でした。その後どこかで聞いた「やらない善よりやる偽善」という言葉のように、「偽善だから」と行動しないみっともなさに比べたら、その行動は意味のあることだったでしょう。

しかし当時の私には直視できなかった。
震災後、計画停電が実施される中で、新作のゲームソフトを買いに行くくらいには現実逃避に飢えていたし、震災との精神的な距離感を持っていました。

そんな私でも、震災のニュースを見るたびに「どうして私が生き延びてしまったのだろう」 という罪悪感を感じていました。
またそれとは別に、メディアで五月蝿いほどに流れる「絆」という言葉に違和感と怒りを覚えました。「こんな状況になって″絆″に気付くなんて遅すぎる」と、流行りとして湧いて出た「絆」に白々しさを感じていました。「どうせまた忘れてしまう程度の絆なんだろう」と。

このように罪悪感を持ちながらも、それを打ち消せる(可能性のある)アクション自体にも疑問を抱き、直視も行動も出来ずに流されていく。私に残ったのは私自身への失望でした。
学校生活でも日々、その失望感は膨らんでいきました。
看護を志す同級生たちから発せられる、陰口や噂話に辟易し、嫌悪感を抱きながらも行動できず、孤高の道を選ぶことも出来ない自分の弱さ・中途半端さに失望していく。 
学業の停滞と孤独、自分自身への失望で削られていきました。

今思うと、震災がなければ同級生たちの雰囲気もまた違っていたかもしれないし、私自身もそこまで追い込まれずに何とかしていたかもしれない。
でもそれはきっと仮初めで、いつか別のタイミングでそれぞれがぶつかっていたのだとも思います。
だからあの時点で色々なことを感じて、矛盾を見付けて、気付けたことは大事なことでした。
余裕のない生活で見落としてしまった部分もかなりあること、行動に移せなかったことは残念でなりません。けれど過去に戻っても同じ経過を辿ってしまうだろうなと思う程度には、当時の精一杯だったと思うのです。

震災を経て、私自身がなにかを掴むのには時間がかかりました。余裕を取り戻し力を蓄え、ひとつひとつ小さな自信を積み上げて、それからやっと捉え直すことが出来たのです。
きっと現在も続くコロナ禍という状況も、ウクライナとロシアを取り巻く状況も、言葉にしてまとめるには時間がかかると思います。
ただ現在進行形のこれらの事柄には、まとまらなくても今信じていることを発信したり、なにが出来るのかを考えて行動していくことが必要です。
目の前の出来事・人を大切に、自分のやれることをやっていく。未来に繋いでいく。それが震災を経ての私の答えの1つです。

 

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