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彼女のことを想う…

きのう記事にした、語学留学中の娘のホストファミリーになってくれたJのことを考えていた。
自分の中に無意識に存在する魂に気付き、更にそこに居られるのか、そこに語りかけられるのか…私はそこに居られる気がしているが…、多分一人一人のそこに、居ながらにして、その存在は唯一無二の存在だろと感じている。それは私の想像を超えた形であって、私には図り知ることが出来ない。
それ以上に知りたいという欲求も不思議と起こらない。
〈人智では到底図りしることができない〉と明言されているからだと思う。

Jの話に戻ると彼女もその体験をした、と本人の口から聞いたということもあるけれど、体験しなければ分からない部分を語り合い共感し合っていた。
それが違っていたのだろうか、と思ってみたり、いやいやそれはない。確かなものだった。と思ったりして来た。
ただ、いくらその体験をしていても
知らず知らずの内に、またもとの場所に戻っている自分を感じることが、私にも度々あった。それは私の場合、子育てや家庭生活の中で、生産性を求め、走りだそうとする時、怒りや憎しみの虜になってしまっていることに、気づいていない時。
そういう部分には、全く関わっては頂けない。苦しみ始め、救いを求める時に、ほんの少しでも、これは自分が問題では?と思ったかどうかも、自分では分からないくらいの隙間に(瞬間に)スッと入ってこられる。すると、ハッキリと、自分に充満していたものに気づく。そして安心な平和な所へと戻される。それは、喜びに満ち、涙が溢れ出る程の歓びだ。自分の負の部分に触れ、歓ぶ。原因を見つけ、更に責めを受けることもない。そんな感じだ。その隙間もないくらい怒りにに任せて、過ごしていたり、独りよがりになっていたりすることに〈気づく〉というのは、神の側から見ると、入り込む〈隙〉に見えるのだろう。と言うより、そんなふうに出来ていると感じる。ほんの少しの隙間も逃さず…まるで液体か気体かが入り込んて来る様に似ている。いや、隙間から差し込む光と言うべきだろう。
また、その反対も…怒りや憎しみの虜になっていく時も、同じような仕組みになっている気がする。(隙間から、平和を好まない何かが、盗賊が…)
それを〈盗賊があなたの知らない内に入ってくるので、常に見張っていなさい〉入り込む隙きを与えてはならない。
イエスは魂のありようや魂にのみに語りかけておられることが分かれば、このことばの意味はこうなる。
私がどちらに居たいのか、私に(一人一人に)任されている。だから、自分を見張っていなければならない。
夫婦や家族の関係は四六時中なので、沢山の自分体験をする。一瞬に過ぎ去る自分。見張りが必要だ。
すかさず、逃さず見ていく(飽くまでまも自分を)ことが求められている。
自分自身の体験もあるが、彼女を見て見事に出来ていることに恐れいった。
彼女はその体験を、その感覚を忘れてたしまうほど、固く閉ざしてしまったようだ。

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