母の最期

1日に何度も何度もトイレに行く日々。まるで仕事のように…。
その様子が必死に見えてこちらが辛くなる。
便秘がちなので薬を飲んだ後などは特に必死な様子。

一人で歩かせるのは心配(室内も手押し車を押して歩いていた)なので必ず後ろについて歩くのだが、今思い出した😅上出来な母のジョーク、後ろについて歩きながらプーンと鼻をつく臭い「おナラしたでしょ?」と母の耳元で言うと「なーんにもお礼ができんけ」と私は吹き出して母のおツムをペンと叩いて「何にも一人じゃできないくせに口だけは達者ね!!」と言うと、今度は母が吹き出して「ほんなこつ!」と。時々こんなドンピシャなジョークを言う。

トイレ通いの悲痛な様子を見て私が「もしかして汚すんじゃないかと心配なの?」と聞くと「そう、あんたが大変じゃろ?」と言った。「私のために頑張ってるのかー…」と言うと「そんな思いをさせたくないから」と言った。
普段から寝たきりにだけはならないようにしたいということを口にしていたので、只々その思いだけで1日の大半を過ごしているのだと気づき母に「寝たきりになっていいのよっ!」と言うと「それだけはできん」と言う。父を思い出す。
次の日耳元で「お母さん!私ねー、寝たきりになってもらった方が楽かも…」と言うと直ぐに涙ぐんだ。
「そんなに頑張ってたの〜?もういいよ!願いは分かったから。ただ寝たまま用を足すのは難しいよねー」と言うと、何度かの入院で経験があってすぐにコツをつかめると思うと言った。それから直ぐに寝たきりへと突入して行った。母の部屋にベビーモニターを置き何時でも聞こえる状態にしていたのが本当に役に立つ。お布団のバサバサという音まで聞こえる。しかも受信器は庭へ出る時も持って行けて同じようによく聞こえるので縛られてる感がない。
私の心配をよそに意外とスムーズに用を足せる。最近は介護用品や公的介護支援が整備されていて、介護をする側も本当に楽に出来る。週2回のお風呂サービス、週1の清拭。これだけで十分に清潔を保てる。その他紙オムツ、大判のウェットティシューは、余るほどに支給される。
他にドラッグストアへ行けば、便利な介護用品がいっぱい。
泡のシャンプー、泡のボディーソープ これは洗い流す必要がなく、濡れたタオルに泡を乗せ拭いていくだけで良い。
大便で汚れたときはペットボトルのキャップに穴を開けたシャワーで洗い流してもオムツがしっかり吸収してくれる。オムツを変えるたびにそれを使えば爽やかなミントの香りが母を包む。
母は自分の母親(私の祖母)を引取り最期は私の実家で迎えたが、本当に放っていた。そう言えば寝たきりになる前にお風呂を介助していた時に足の指を(母の)1本ずつ洗うのを見て、「ばーちゃまにもそうして上げれば良かったつたいねー、最後は指の間から腐って来てたみたいだった、その時まで全く気づいていなかった」と言っていた。自分の中の年寄りに対する気持ちと私の気持ちを重ねるしか知らないから、せっせとトイレ通いをしていたのだと思う。よく「天を向いてつばを吐くようなもの」という表現があるように自分で自分を差別しているようなものだったのだと思う。かつて父にしたように衰える自分にも、その判定のようなものをしていて、必死で頑張っていたのだ。「寝たきりになってもらった方が…」と言ったことを、それで良かったのかなー?生きる意欲を取り上げていないだろうか?と答を探していだが、これで良かったのだと思った。
朝起きるとモニターを通してバサバサとお布団の音がして、私がおはよう!と上がって行くと「今 起きて呼ぼうとしたところだった!」と言う。音が聞こえるからだと言ってもその仕組みは分からないらしいので、気持ちが繋がってるからよ!という事にしていた。
蒸しタオルを渡し母が自分で拭く。私は下へ降り朝食と新聞を持ってあがる。
母の朝は遅く私にとってはとても楽な介護だ。
母の食事は朝晩の2食。間に軽いおやつがある。
母の好みのものを買ってくるのを楽しみにしているようだった。
同じ物を好んで食べるので、飽きないか聞いてみると、ニコニコしながら飽きないと言う。特にお気に入りの煎餅があって、大事に大事に食べているように見えていたので、一度にたくさん買ってきてクローゼットに入れておいた。
ある時こーんなにあるから、好きなだけ食べればー?と言って、クローゼットの中を見せると、小さな目を大きく見開きホーーッ!と本当に嬉しそうだ。食べる物も、着る物も、欲しい物、何でも程々に…このくらいにしておこう…と言うのが母の長年のスタイルだったが、ここへ来て少しずつ壊れていたので、私はもっと壊したくなっていた。気が済むまでやらせたい。もう残り時間が迫っている。

似たきりになってからは、N以外は殆ど顔を合わせることがなくなり、もしかしたら母は一緒に住んでいることをに忘れてしまっているかも知れないと気づき、土日は、男性陣に食事を運んでもらった。母は「今日はSさんが持ってきてくれた❤️今日はTちゃんが…」と本当に嬉しそうで大成功!!彼らも嬉しそうだった。
夜は結構遅くまで起きていて、入れ歯洗いや歯磨き、お顔拭き、オムツ、そしてお薬。それが終わるとお顔とおツムを撫でて、「よく眠れますように!」とおまじないをする。
母はそれが大のお気に入りで「あんたがそれをしてやると、よー眠るるもんなー!」と毎晩のように言う。
「私んごたる年寄りがどこに居るじゃろか、日本中探したっちゃ居らんじゃろ!」と私は「その言葉が一番嬉しいよっ!」と言う。
こんな毎日の中母が楽しみにしていたのは、やはり相撲、フィギュアスケートなどだったが、その内それも面白くなくなったと言うようになっていった。例えば相撲は、その力士の取り口や作戦などを予想しながら見るのが楽しみだったが、それを忘れてしまっているからつまらない。また仕切りの間に眠ってしまったか、次見たら終わっていたとか。フィギュアもワンステージを見ていられなくなった…と。あとは食べるだけが楽しみと言う。ならば、朝ご飯とか夕飯にこだわらず本当に好きな物を食べさせたいと思い、朝からお餅入りの善哉やゼリー、プリン、おはぎ、羊羹、煎餅etc…。
ご飯と言えるようなものと一緒に出してみるとやはり、そちらを好んでで食べた。そしてベッドを起こし自分で食べることができていたが、お箸を持つ手も震えるようになって来た。食べさせて上げる。
少しずつ少しずつ食が細くなり、最後には誤嚥が始まりほんの少しのゼリーも水滴も飲めば咳き込むようになり(既に吸引器もレンタルしていたが)もう無理なのだと思う。
訪問医をお願いしたかったが、私の知識不足で叶わなかった。
訪問医を依頼するには、その医師に一度診てもらっていなければ出来ないらしく、母に伝えた時は、手で「NONO」という仕草をしながら「行かない。あんたに任せとけば何も心配いらん!」と言った。
最期はどんなふうに訪れるのか私には全く分からないが、母を見ていれば分かるのだろうと思う。「松のことは松に、竹のことは竹に、母のことは母に聞け」だ。
とは言え、受け留めるのは少々しんどい。私は不安や疑問を感じるとき、よく原始に返って想像する。特に人の生き死にに関することは、答えが見えてくる。この時もそうだった。自然死…それが私の理想。
そして、母もまた私の理想に賛成していた。母は「漠然と考えていたが、あんたの話を聞くと本当にそうだと納得するもんなー」と、自分の「その時」もそんなふうにして欲しいと言っていた。「分かった」と引き受けたので「私は出来る」と思った。
もうそろそろかな?と思ったより長かった気がする。どうしても水分を上げた方が良いのではないか…と思ってしまう。それをしては、誤嚥を何度か繰り返し、訪問医に来てもらえば点滴という場面なのだろうと思った。振り返って見るとちょうど1週間程、母の側に寝たことになる。訪問入浴を1度断ったが、担当の人が今日は行ってみます。と言われてきてもらった。こんな状態でも入れるのか…と思った。抱え上げた状態の母の腰骨の辺りが褥瘡で真っ黒になっているのが見えて涙が溢れ出た。水分を取れないのでオムツも濡れていなく、母の体を触ることもしていなかった。壊れそうで怖かった。そして、次の朝息をひきとった。そうだ、その2日前に耳元で呼びかけたとき反応があったので(一生懸命目を開けようとした)「そろそろお迎えが見えてるみたいね」と言う私にかすかに反応したので、「ここに一緒にいるからねっ!」と伝えた。
お風呂サービスの人は「多分、もうそろそろかな?と思うので」と月曜日に断ったときは分かりました。と言われたのに次の木曜日には入れられたことを考えると、経験豊富だから、最後に入れてくれたのだ…と思った。(それまでは少しでも具合が悪いと入れてもらえなかった)
亡くなってから、あれで良かったのかな?と思うことが、いくつかあったが、母とたくさん話していたので、しかも苦しそうには全く見えなかったので、母の望み通り自然に逝く事ができたのだ…と思っている。
私にとっては、母と私の人生は本当に苦しみと喜びに満ちた人生だったと思っている。
こうして母の93歳と8ヶ月の人生が完成した。

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