誇り

【自分に誇りを持つ】ということに触れてみたい。
私が思っている誇りとは、誰かに認められる とか称賛されるとかそのようなものではない。
30歳くらいまでは、自分に自信が持てないことも、そもそも自信というものがどんなものか、どんな感じなのかも分かっていなかった。
自分に自信がないのだと感じ始めたのは、結構 悩みが充実してきた頃のような気がする。
【悩みが充実する】という感覚も私 独自の表現なのかもしれないが、私の感覚を表現するとその言葉が的確な気がする。
【人前でどのような態度をとるべきか、どのようなことを発言すればよいのか、そんな所にいて、〇か✕かばかりが私を支配していた。】
このようなものが自分の中に在ることに気づき始めてから、これが【私の悩み】なのだと分かり始めた。
私を支配していた感覚こそが私から自信を奪っていたものだった。
〇か✕かと言うならば私には〇は一つもなかった。
では、その判定は誰がしているのか?と問うとそれは私なのだ。
では、私が2人存在することになる。判定を受ける私と判定をする私。
まるで一人芝居。芝居???
判定する側の私が【ちゃんとした人】というイメージをもう一人の私に与えている。でも、その両方の私は完璧ではないので、そのイメージも〇ではないのだ。
芝居…、そう。私は判定をする方の私から与えられた〇の方を演じていた。そう演じていたのだ。と気づいていくうちに、その判定をする方の私は、私の中に存在する母だった事に気づく。
だから2人なのだ。
私は母に〇をもらいたくて、本当の私を否定し必死で母に〇をもらうための演技をする人になっていたのだ。【魂を売り渡す】とは、この事??と思った。母の〇が欲しくて自分自身を手放していた。否手放しきれなかったから私の中で2人が張り合っていて、大変な事態を巻き起こしていたのだ。
このように、私の中に悩みとして在った支配者は次々と暴きだされ、一つ一つの出来事の中から、一掃されていった。どのくらいの時間を要したかは覚えていない。気づく度に軽快になり見つけ出すことが喜びとなって行った。そして、私自身になっていく私は結構良い。😃
当時 私はこのことを【内側の大掃除】と名付けていた。
母から脱却した私は、自分に誇りをもつようになった。【誇り】というものが感覚として私の中に芽生えた。
その判定は、私自身がするものだった。
それは誰の目にも触れることはなく私の中に存在する私だけのものだ。
誰の判定も受けない本当に本当に心地よい感覚だ。
一つ一つの事柄に丁寧に向き、丁寧に私の選択を見出していく。
自分に【偽らず誇りを汚さない】選択を。
私の判定は私自身がする。


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