公園で見た光景

自宅から50メートルほどの所に公園がある。最近はどうなのか分からないが、公園に集まるお母さんたちの縛りが強く公園デビューなどという言葉が生まれた頃のこと。

孫のOを公園で遊ばせていた頃まさに入り辛い雰囲気を醸し出している軍団がいた。50歳の私でも足がすくむほどに。
彼女たちはベンチを陣取りタバコをふかしながら遠目に子ども達を見ている。
子どもが(彼女たちの思う)悪いことをしたときやイザコザしているときのみベンチから大声でどなる。

私はまだ一応先輩だから気にしながらも「おはよう!」と自然を装い公園へ入って行く。Oは砂遊びが目的というほどに砂場へ直行。
幸いなことに砂場はベンチから一番離れた位置にある。
私は母親であるNにいつも子どもの(O)1番の味方であってね!とお願いとも思える言い方をしていた。それでもあの人達が居る公園でそれを実行するのは勇気を要する。
そういう中へ飛び込んで行くNを可愛そうにも思っていた。そういうことを話題にもしていた。

ある日まだ2歳になる前の頃だったが、前日ミニカーを買ってもらい、寝るときに「明日公園に持って行くー!」と嬉しそうに持ったまま眠ったと言う。
そこでNも私も同じこと思っていた。
公園にいるあの母親たちは人格というものがゴチャゴチャで自分の子どもを我慢させ、他の子どもを優先させるのを美徳としている人たちだ。
(誰が誰のお母さんか分からないくらいに)

だからいつもいつも諍いがあり不満の塊のような親子達だ。
よその子の味方をすることが美徳なので、それをしない母親を徹底的に無視したり意見したりもする。

私はNに「Oがあんなに楽しみにしているのに、貸してあげなさいなんて言えないよね」と言うと「私も今同じことを考えてた」と憂鬱そうだ。
私は「頑張れ!Oの気持ちの代弁者になるのよ!」と言った。でも心の中は、あー…可愛そうにNと思っている。

次の日予想通りの展開に。
Oが遊んでいると「貸して!貸して!」とOは予想通り「イヤだ!」と、そこでNが「ごめんね!Oちゃん買ってもらったばっかりだから、もう少ししたら貸してくれると思うよー」と言うと、見張っていたのだろう、早速のようにベンチから大声で「貸さないんなら持ってきちゃ駄目だよー!」と。
Nは、貸してといった子に「きっと明日は貸してあげられると思うよー」と言うとOが「少しだけならいいよー!」と貸してあげたと言う。
相手の子はすごく嬉しそうに「ありがとー!」と言ったそうだ。Nは、黙ってOの背中を撫でていたと言う。(Nよく頑張った!!)
Oも母親の気持ちを感じたのかもしれないと思う。

私達は反対の立場にあるとき、「買ってもらったばっかりなんだってー!今度貸してねー!」と言って言い諭すと思う。それでも駄々をこねるとしたら、あなたもあれを買ってもったばかりのときそうだったでしょう?というと思う。
でも、ずっとそうしてきているからこんな時駄々をこねたりは決してしない。
その子にとっての初めての公の場で気持ちを理解し代弁してもらうという積み重ねの体験が本当にあれば、相手を理解することができる人に理屈なしに成長する。

それがないことが【イジメの原型】になっていると思う。(ここにいた母親たちは、イジメのお手本だった)
【自分の子の気持ちを理解し、代弁する】ここが欠けてしまっていて、一段抜かしの躾の結果、自分を大切にすることができない子が育つ。
【自分を大切にする=我儘だ】と勘違いする。している大人たちが大半かもしれない。(これは日本人の特徴かも)

自分の気持ちを理解される経験が豊富な人が本当の意味の親切や思いやりを持てるのだ。自分がしてもらったことが、当たり前のように組み込まれているから当たり前に他者にもする。
考えてすることではない。
絵に書いたような親切や思いやりは、意外に役に立っていないことが多い。(ありがた迷惑というように)

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