反抗期とは

子供は直感に従っているだけでその直感を丁寧に説明できないでいる。直感はあたっている。正しいか否かの問題ではなく、ただ当たっている。その人固有の感覚として当たっている。その個性を表すものだ。
なぜ反抗的な言い方になるかと言うと初心者だからなのだ。大人とは違う自分の感覚や感じ方を発信することに慣れていないし、未熟なのだ。発信の仕方が未熟なのであって、発信の元、発信源は未熟も何もなくその人そのものなのだ。
そこで何を言おうとしているのかを、耳を傾け心を傾けなければ、見えて来ない。それを聞く側がよく咀嚼して「あー、あなたが言いたいのはこういうことね」と表現を代行?代弁してあげるのが、親(保護者)大人のすることではないかと私は思うようになっている。判定は不要なのだ。そして私達は、新しい感覚を知ることになる。
なので「反抗期」という言葉は、大人中心(大人のエゴが)に決めた言葉だと感じる。そう感じるようになってから私は子供たちに対して、自分のことを「お母さん」と言っていたのを「私」と言うようになった。
耳を傾ければ、私が欲しかった「答え」がたくさん見つかった。
これから書くことを「エーッ?!」と受け入れ難く思う方も少なくないと思うので予告?します。「エーッ?!」かもです。
私は既に子供に反抗しなくなっていたので、長男は家に帰るとよく喋るようになっていた。
私は彼の話に興味深く耳を傾けていた。
長男が中学の頃、当時は校則が最も厳しいと言われていた頃(私としては学校が最もわがままだった頃、西の愛知東の千葉といっていて管理教育か強い県として知られていた頃だ)
品川区にある公立中で、今となっては本当に笑ってしまうが当時(本人にとっては、大事な事)校則で前髪の長さが決まっていて眉より下まで伸ばしてはならない、子供達はマユゼンと名付けていた。登校時に校門の前に生活指導の教師が立っていて、一人一人検査をする。タスキがけのかばんの長さも決まっていた。
そこで長男は前髪で引っかかった。その時彼は「この前髪は僕のものであって学校の備品じゃありません」と言ったと言う。
その通り!!と思う。
なぜいけないのか、全く分からない。一番気にする年ごろ。なぜ取り上げる…と怒りを感じていた。

高校では「今日さー、〇〇先生が、教師に向かって、なんだその言い方は!敬語を使え!ってー。それで俺は敬語を使うかどうかは、こっちの問題でしょ?尊敬してれば自然に出てくるよー!敬語使ってほしかったら、尊敬される教師になれよ!って言ったの。だってそうでしょ?」と言った。「そうだよねー!」と。
私にはそんな感覚はなかったが彼に言われてホントにそうだと思う。また別の日「担任が校長が呼んでるから、校長室に行ってこい!って言ったのねー、だから、用がある人が来るのが礼儀でしょ?俺は用がないから行かないよ、って言ったら来なかった」と言う。またまたその通りだよねー、と言った。
学ばされることがことが多い。
そのお手本を見せるのが大人の役割。人格というものをまざまさと見せつけられる。彼はツッパリではなかった。こんななので中学のときは
学校中が認めるツッパリ君から尊敬され(成績も良かったので)中学の3年間イジメも受けずに済んだ。つまり彼はこのツッパリ君の代弁者だったのだろう。

私はこの長男が言っていることこそ主体性であり、プライドだと思っている。この頃私は、彼のその部分が確立されるまで大切に育てたいと思った。そして今彼を尊敬し誇りに思っている。


親は権威を振りかざすがその権威というのはどこから得たのか……。
これも前稿に書いた「普通こうだ」つまり(この言葉はあまり使いたくないが)「常識」に定まっているからだろう。みんなが持っている意識の背景というか、かつての私はそうだった。大人が一段上にいる。本当に大人なら大きな態度を取るのではなく、大きな器で関わる。それが大人だと思う。
これは親だけではなく、社会においてもそうではないだろうか。上司、弁護士、政治家、医者(長、先生と呼ばれる)このような方々が本当に成長した大人ならば、
子供の命がむやみに失われることはないのではないかと思う。「命を大切にする」これもまた教えることではない。大切にされていると感じられないから自殺をする。感じるのは言葉からではない。行動、行為を受けてこそなのだ。勿論言葉もその一部ではある。
大人が変わらなければ子供も社会も変わらない。
「普通こうだ」で変わるわけがないと思う。


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