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心の栄養

イスラム美術が大好きで中東地域研究を学んでいたこともあり、たまにモスクに出かける✈️東京ジャーミーというモスクは、優雅なトルコ建築で美しいイスラム紋様で装飾されており、見るたびに心が踊るのだ。また1回には、小さな売店があり多くの食材が揃っておりとても楽しい。イスラム教徒ではない私を受け入れてくれるモスクの寛大さには脱帽である🕌

モスクでとても感慨を受けた話がある。
4年前にこの話を聞いたときは、イスラム教って深い意味を持つ興味深い考えがあるな、なんて当たり前すぎる感想だった。そんな単純な受け止め方だったけれども、今でも言葉が脳裏に焼き付いて離れないでいるのだ📚

『食べることは体の栄養を得ること。そして祈ることは心の栄養を得ること。』イスラム教では一日に5回お祈りをするが、それは食事と同じとのこと🍡


祈ること、それは古代から変わらず人間が行ってきたことだ。理性主義の近代になり、世俗化されて無宗教と呼ばれる日本でさえ、今でも脈々と祈りの文化は続いている。てるてる坊主も、手に人を書いて舐めることも、幸運を祈るお祈りである。お盆で祖先に感謝をしつつ、自分の未来や挑戦での成功をお願いすることもお祈りである。お祈りを通して自分のあるがままを受け入れ、何が起ころうと神様次第と自信を持って、楽観的に未来を迎えられるようになる。どんな時代でも、祈りは人間の生に関わる儀式なのだ。

祈ることは人間の本質として残り続けているけれども、現代の日本での日常生活からは削ぎ落とされてしまっていることが多い。仕事が忙しくて祈る時間がない、威厳のある自然や寺院など祈る場所がない。経済活動を中心においた現代は、祈りの余地のない自己責任にあふれた社会である。


どんなに祈りの文化が薄くなってきたとはいえ、だれもが祈ることで享受してきた心の栄養は今でも求められていると思う。心のオアシスを求めて、友達とご飯に行ったり、仕事に熱中したり、、自分の未来を不安に思いながらも、これからの不安、そしてそれを打ち消してくれる今の楽しみを共有して、自分が自分らしくいられる場所を必死に探しているのだ。

そんな、祈りの代替として機能している、むやみやたらな”現代の忙しさ”はとても脆弱である。忙しさの程度が自分の限界を超えて、心を失った時、”ぷつん”と切れてしまうのだ。あれ私は何のために頑張っていたんだっけ?祇園精舎の鐘の音が聞こえてくる。諸行無常な世の中、まるで終わりを悟った平家のような散々たる気持ちになることもある。


祈りの文化が薄れて本質的な祈りは失われている今、私たちは心の栄養をどこで得られるのだろうか。

本を読む
音楽を聴く
気ままに踊る
映画を見る
旅をする

心の琴線に触れる芸術との対話は、心の栄養をみたせるのではないか✨
自分が多くの人に支えられていることや、自分のあるがままを社会で受け入れられていること。自分が生きていることすることを意識し、かつ周りに想いをはせていること。芸術を通して、自分と社会とのつながりを感じて安心感が得られる。"案ずるよりは産むがやすし"の心意気をもてる原動力を与えてくれるのではないか。

人間の歴史に根付いている祈りとは、神は自分を見てくださっていると信じることで勇気が得られる行為なのだと思う。自分の存在が周りの人に支えられていると信じられる心の栄養はずっと必要なのだ。

コロナ自粛が解放し始め、だんだんと心をなくす忙しい日々が近づこうとしている。心の栄養はどこで得ているのか忘れないように生きていきたい!


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