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斎藤茂男 ルポルタージュ 日本の情景 #4

1970年代の日本と現在の日本との違いは何か?そりゃあ無数にある。ただ、本著作集を読んでいると気づくことがある。それは、取材対象者が戦争経験者であることが普通にあることである。戦争経験者というのは戦地に行ってた人、という意味だ。1970年代の日本社会では、戦争経験者が普通に、親だったり、教師だったり、会社の上司だったりしたわけだ。思えば大岡昇平、春風亭柳昇、田中小実昌もまだ健在な時代。”名作の誉れ高い”(注:観ていないという意味)ドラマ『男たちの旅路』で鶴田浩二演じる主人公は特攻隊の生き残りだった(らしい)。

その人間が生きる時代の「時代精神」…というか「世間の常識」のようなもの――「マインドセット」から自由でいることは難しい。1970年代当時に生きる人びとの言動が「今日の人権感覚に照らして不適切と思われるもの」であるのはある意味で当然。斎藤茂男著作集をいま読むことは、過去を覗き込む行為なのだから。だが「いまだにこういうこと言うやつがいるよな…」と思わされるのもまた事実だ。当時の振る舞いが、「そういう時代だったから」通用したとしても、それが古くからある、ましてや普遍的な正当性があると思うのは錯覚にすぎない。フィクションの世界では定番であるタイムスリップものは、そういう感覚のズレ(あるいはノスタルジー)を笑いにしているわけだが、筆者が保佐人を務めている昭和一桁世代の人(男性)と話をしていると、「何言ってんだコイツ…」と呟かずにおれない言動に出くわすことが実際にある。ただしコイツの場合は、過去から現在にタイムスリップしたわけではなく、むしろ、世の中の「進歩」に取り残されているわけだ。もちろん、半世紀以上もの時間を経たいまもなお、社会から「野蛮」が消え去ったわけではない。その分かりやすい目安の一つが、「女性」をとりまく意識変化だろう。

斎藤茂男の取材対象はだいたいが「団塊の世代」の人たちで、だからいろんな問題を扱っても、その要因は結局のところ、「高度成長」がもたらした、「家族」「地域」「共同体」の変容、人びとの意識変化、等々、よく言われるやつに行き着く。ただ著作集全体を通じて気づくのは、どのような問題にも必ず顔を出すのが「女性差別」なのである。その意味で言うと、1928年(昭和3年)生まれでホモソーシャルなマスコミ出身の斎藤茂男は、フェミニズムという言葉すらない時代から女性に対して(限界はあったにせよ)フェアであったと思う。著作集最終巻である『新聞記者を取材した』では女性記者に対する業界内に蔓延る性差別にも言及している。彼がもっと長く仕事をしていたならば(注:斎藤は1999年に死去)、関心はフェミニズムへ向かったことだろう。

女性差別ひとつとってみても、本著作集を通じて見るかつての「日本の情景」が「野蛮で下品で全然ダメじゃん」といま思えるのであれば、それはわれわれが多少とも「進歩」した証左だが、それは当事者をはじめとする多くの人たちによる(いまだに続く)「努力」の賜物だ。そうやって社会は漸進的に「進歩」していることが、一方で確かめられる。と同時に、それを頑なに拒む(あるいは受け入れられない)人たちがいるということにも気づかされる。どこの世界にもいるし、まあ古代からあると思うが、「そういうものだから」という順応から抜け出すことができない連中――とりわけ「今日の人権感覚」の欠如した人びとが引き起す事件の話題にメディアは事欠かないが――その一つがほかならぬ新聞記者(=マスコミ)であることが最終巻『新聞記者を取材した』で明らかになるのは皮肉なことである。1990年代に”若手”だった記者たちも、辞めていなければ今や定年を迎える年代だ。いま、政府広報…というか「幇間」のような「解説委員」とか政権寄りの政治学者どもの若かりし頃の姿を見ることができる(注:新聞記者に見切りをつけて辞めていく”若手”へのインタービューが前半にあって、こちらはいまのわれわれの感覚に近いように思う)。例えば、ある政治記者は、田中角栄金脈問題のように”知っていながら書かなかった”という言い訳がまた出てくることはないのかと訊かれて、「それは大きな誤解だと思います。知っていたらわれわれは書きますよ」と答えている。ジャニー喜多川による性犯罪とか自民党と統一教会のズブズブとかの「公然の秘密」が長年報道されなかったことを思えば、この言には失笑を禁じ得ないが、逆に、こう言い切ってしまえる人たちが、長らくニッポンのマスコミを支え、またそうやって出世していったのだろう。

今ごろエラそうに政治部記者=卑怯千万クソ蠅ども!
知っていたというならば、なぜ報じなかったのか。
ヒトとしては君らが最もゲボンだな。
キックバックのおっさんたちよりも。

辺見庸ブログ Yo Hemmi Weblog

いま、渡辺治著作集第13巻を読み始めている。新自由主義的な政策のあれこれが本格化し始める90年代から2000年代をメインにした分析だ。ちょうど斎藤茂男著作集と時代的に接続することになった。2000年代以降の「日本の情景」はどうであろうか? それは奇しくも斎藤茂男と同じ共同通信出身の辺見庸が、繰り返し述べているところである。すなわち、「日常のコーティング」「無意識の荒み」「しのびよる破局」だと。(おわり)