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餃子遍歴

宇都宮(の隣の鹿沼市)に育った人間として、ふと私の餃子遍歴について書いてみたくなった。


父が生まれ育ったのは栃木県鹿沼市。小学三年の時、私はその新興住宅地に引っ越した。40年前の鹿沼は田んぼより畑の多い土地であったと思う。通学路沿いにある畑には冬の間牛ふんが積まれ、湯気が上がる中を小学校へ通った。夏になるとビニールハウスや路地でニラが作られていた。その匂いが思い浮かんでくるような気がする。

いつ頃だろうか、新興住宅地の先、駅までの間の国道の交差点に「ぎょうざの正嗣(まさし)」ができた。1990年頃だろうか、いつの間にかできていて、中学に上がる頃からたまに家族で食べに行った。

地元の高校へ通いはじめ、バスケ部に入った私は、同じ方向へ帰る友人二人と帰りに正嗣へ寄るようになった。誰が言い出したのだろうか、部活動で腹を減らした男子高校生にとってちょうど良かった。当時焼餃子と水餃子が一人前六個で150円。「焼三(やきさん)」と頼むと三人前の餃子を焼いてくれて450円。ワンコインで小腹を満たし、友人と別れた(ちょうどその交差点が別れ道だった)。


進学して東京へ出てからしばらくは餃子を食べて楽しむという風ではなかった。都会では餃子一人前が四、五百円していて驚いた。それでも学校の後のバイトの帰りに豊島区要町のラーメン店で食べたりした(と思ってググってみたら今も店がある――福しん要町店)。矢野顕子の「ラーメンたべたい」という曲を聞くと思い出すのはこの店だ。

友人とボランティアに通った横浜市中区の中華街でもきっと餃子を食べた。でもあまり印象に残ってないのは本場の中華料理より日本の餃子店の味の方が身についていたからだろうか。


就職して住んださいたま市は餃子店の多い町だった(都会だから何の料理の店もある)。与野駅近くにある大阪王将には(今の)連れあいと何度か行った。私が発作的に中華! と言い出して食べに行ったのだと思う。大阪王将の餃子は旨かった(そして今も旨い)。工場で作っているのであろう、皮がきちんと閉じてない餃子もあるが、チェーン店化してからも守られてきた伝統の味なのだと思う。大蒜が強めで餃子好きには欠かせない。

王将は仕事の研修で行った際に、あ、王将発祥の地で食べてみようと思って行った京都の店を思い出す(味は変わらなかった)。もちろんさいたまにも沢山あって、住んでいた与野本町や連れあいが住んでいた南浦和、家族ができて住んだ大宮の(北にある)東大成の店にはちょくちょく通った。

さいたまで餃子と言えばぎょうざの満州かもしれない。大抵駅の近くにあって元は餃子専門店なのか安くて旨い(キャッチコピーもそう謳っている)。大阪王将と似ていて大蒜多めなような気がする。通販もしていて連れあいの実家に定期的に送ってくれる有難い親戚がいて、家で食べる餃子は今もぎょうざの満州だ。

他にも大宮区櫛引町にある中華五十番のでっかい餃子は、家族四人で食べても具が残ってしまうくらいの大きさで忘れられない。どうやって焼くのか火は中までちゃんと通っている。

宇都宮が餃子の街として売り出してもう四半世紀になるだろうか。宇都宮で餃子を出す店が集まっているのが「来らっせ」で、帰省した際に何度か行った。ここにはみんみんが入っているから食べるのだが、「正嗣」派の私には何だか皮が厚くて中身が少ないような気がする。みんみんは鹿沼にもあって五月の連休の際に行ってみたら、県外ナンバーの車が沢山停まっていて二時間待ちの予約制になっていた(時間を逃して食べ損ねた)。


そんな栃木とさいたまで暮らしてきた私にとって、仕事をしている長野県内には餃子店が少ないと感じる。週末、仕事の帰りに閉店に間にあえば食べて帰るのは長野市の大阪王将である。

遍歴と思い書き始めたが、なるほどずらずらと出てきた。私も随分と餃子を食べて生きてきたのだなと思う。中学・高校の頃に食べ始めた正嗣の餃子が、今でも尚、私にとって一番の餃子なのだろう。


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