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素敵なものを置く

昨日、初めて我が家に遊びにきてくれた友達が
「私は素敵なものが置けないから」
と言っていた。

センスがない
罪悪感がある
無駄だ
幸せになってはいけない

とにかく自己卑下の配分が大きい。
そういった概念があるんだなぁと感じた。

私は作ってみたかったものを、好きだと思ったものを置いている。

正直なところ、まだ自分の作品を100%愛しきれていない(=自分を愛しきれていない)のだけど、
それでも、私が作ったものは心地よい周波数を放っている。

他にもいいところは沢山ある。
(それを認知するのが今の宿題)

それらをここに書けない恥じらい、自信のなさ諸々…は無用だと、書きながら思ったりもした。


本題は、素敵なもの、というのは誰が決めるわけでもなく、自分が決めるものなのだ。

これが好きだ。
愛おしい。
見るだけでいい気分になれる。

そういうものを感じられるだけで十分であって、それは自分にしかわからないものでもある。

ドライフラワーを枯れた花だからゴミだ、と認識する人もいれば(私の夫)、
自然がそのままの形で残っていて美しい、と認識する人もいる(私)。

それは個々人の好みであり、違いでしかない。
そこに模範的な正解はない。

誰かから見て「素敵なもの」じゃない。

自分の「好き」という気持ちを尊重し、
周りから何と言われたとしても、それを愛すればいい。

(自分の中に否定する気持ちがなければ、誰も批判はしない。)

「愛する」という純粋な魔法をかければ、それはどんなものでも「素敵なもの」になる。

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