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【Bookレビュー『病的に自分が好きな人』榎本博明著】※読書メモを兼ねているので相当長いよ。

Kindle Unlimitedの斜め読み。今図書館で借りてきた本をどっさり読まなきゃいかんのに、どうしても寝床だと暗い中でも読める電子書籍ばかりになってしまう。(めちゃくちゃ目に悪い)


さていつものBookレビューよろしく、印象的な部分を抜き出しつつ感想をちょこちょこと。


p,19〜
「人生を勝ち負けで見ようとする人がいる。その場合、当然のことながら自分は勝利者でありたいと思う。だが、自信がない。不安になる。でも、病的に自分が好きな人物は、自分が敗者になるのを想像することには耐えられない。」


「何としても勝者にならなければならないという気持ちが先走る。そこで姑息な手段を使う人物があらわれるわけだ。」


「自分が困っているときや迷うときには、周囲の人に気軽にアドバイスを求める。」


「そんな風に、気軽に人に助けを求めたり、必要な情報を教えてもらおうとするくせに、自分が持っている情報は隠したがり、出し惜しみをしているのがありありと感じられる。」


「相手が求める情報をもっていても、曖昧な言い方で済ませたり、よく知らないフリをして適当にかわそうとする。大切なのは自分だけ。他人はどうでもよいのである。」


「このタイプは、何でも勝ち負けの図式で見ようとするため、周囲のだれかが有能さを示す成果を出したりすると、負けたという感じになり、面白くない。」


「「勝ちたい」「負けたくない」といった気持ちが強く、また「負けるかもしれない」「自分は有能ではないかもしれない」といった不安も強く、両者が絡み合って「見下され不安」というコンプレックスを形成する。」


「コンプレックスを意識するのは苦痛だから無意識に追いやられる。」


「無意識層を動かしているのは衝動であり理性ではないため、冷静な頭で考えればみっともないことでも、相手に優越したい、不安を払拭したい、といった衝動に駆られてついやってしまうのだ。」


子どもに勝ちにこだわるスポーツや受験を意識した勉強をとことんやらせることの弊害ってこれよなぁ。勝利至上主義、能力至上主義の人と私が相容れないのがここ。あと努力至上主義とか。


これね、この価値観、若くて人に勝てるうちは良くても、歳をとって勝てなくなったときにひたすらつらいよ。勝たなくてもいいんだよ。勝たなくても別に生きてていいの。


あと努力至上主義ね。これホント声を大にして言いたいけど、自分が努力って思ってることって、驚くほど能力に左右されてるからね。


努力でなんとかなる部分なんて、能力の上澄みみたいなものだと私は思う。それを自分の努力だと錯覚してゆめゆめ誇るなよ。驕るなよ。(能力で得たものを振る舞って周りに奢るのは別にいい。むしろ還元。奢りたまへ。)


もちろん個人内評価としての努力はいいのよ。前の自分より生きやすくなるため働きやすくなるための努力は惜しまず大いにやればいいと思う。


でも他人と比べて、同じ水準にないことを嘆いたり自分の水準を満たさない人を見下したり叱咤する【権利】が能力のある側にあると勘違いするのは違う。他人とはそもそもスタート地点が違うのだから。その人の目の高さは必ずしも全てを努力で得たものではない。


他人と同じ量の努力で他人と同じ水準にはならない。大事なことなので2回言う。他人と同じ量の努力で他人と同じ水準にはならない。


(このあたり本書と並行して読んだ『されど愛しきお妻様』鈴木大介著、に詳しく書かれている。こちらもまた後ほどBookレビューを書こうと思う。)


そもそも努力は人に求めるものではない。


優れた人は能力で最初からゲタを履いている。いや逆かな。私が思うに、努力はもともと持っている身長(能力)にゲタを履く程度の違いでしかない。


背の低い人が背の高い人と同じ目の高さになろうと思ったらとても高いゲタを履き続けなければならない。かなり大変よ。


努力そのものを否定するわけではない。私が否定しているのは努力至上主義。自分が社会に折り合っていくために、生きやすくなるために、努力で埋められる隙間は大いに埋めるといい。裏を返せば、努力とは【隙間を埋める】ものだと私は思っている。


こんなふうに言うと努力のチカラを軽んじているようだけど、隙間を埋めるのって結構大事な役割だと私は思う。


持って生まれた能力は個人の【持ち味】として活かしていけばいいけれど、それが突出してないからといって悲観することでもましてや人から軽視されるのに甘んじることもない。


能力の恩恵とやれる範囲の努力で高い水準のチカラを手に入れた人が平気でそれを得られない人に【努力】で同等のものを求めるサマは外から見ていると醜悪だ。自分のチカラだけでそれを手に入れたと驕っている。


たとえば、同じ賃金で単位時間あたりの自分の仕事量の方が多いのが許せない、と声高に言う人がいるとする。


その人の主張は、自分の上回ったチカラを足りない方に回して手助けしようという気持ちより、自分が世界の標準だと勘違いして、足りない方を怠惰であると決めつけ、出せ出せと無理な要求をして自分と同じ水準のチカラを回せと言うのと同じことだと私は思う。


なぜ?


なぜ余力を弱い人を助ける方に回さない?なぜ自分のチカラを最低基準として共同体に対して最低限の奉仕しかしたくないと自分の能力が余分に回らないように引き締めたがる??


強いものは自分より弱いものを守る。それが人間だ。by竈門炭治郎。


無理のない範囲で効率よくたくさん働ける自分の優れた能力は嬉しいものじゃないの?弱いものを守れる自分は誇らしい存在ではないの?人を助けることを損したと思う思考回路が損してると私は思うけれど。もちろん無理してまで無料奉仕する必要はないけれど、できない人を憎んでしまうほどのチカラの出し惜しみってなんなんだろう、と純粋に不思議に思う。


これもまた共同体感覚の欠如なのか。


できることは損なのだろうか。人よりできることで得られる優越感や全能感。それでもうすでに報酬は支払われ、メンタル面で得をしていると思うんだけどなぁ。その得た分を足りない人に回せないものか。その取り分は計上されないのか。それも含めて自分は【努力】したのだから不当を訴えることを当然だと思うのだろうか。結果だけを見て?


自分のすでに得ている持っているもの、貰っているものには無自覚なのか。なぜ不満な部分にだけフォーカスできるのか。本気で言ってるのか?そういうパフォーマンスなのか?不満ばかり口にする人を見るとそのあたりを心から不思議に思う。


あとそれって時間の経過を無視してる。どんなにか優れた人でもいつかは衰えていくんだよ。盛者必衰のコトワリ。by平家物語。


自分が若い頃に年寄りをはじめ自分より能力が劣る人を守りいたわらなかった人は、自分が年寄りになったときには人にいたわってもらえないよ?と。


仮に幸運にも人に恵まれていたわってもらっても、その思いやりを素直に受け取れないから苦しいよ。思いやりや優しさをやり取りする【感覚】を持ち得ないとしたら、それはとても悲しいことではないかしら。


そういう人はアドラー心理学の【共同体感覚】をもっと知ってほしい。ユダヤ人のアドラーが戦争で酷い目に遭って二度と戦争の起こらない世の中を目指して広めたかったアドラー心理学。人と無用に争わないための心得がたくさん紹介されている。


私は今「嫌われる勇気読書会」でアドラー心理学についてのほんのさわりを学んでいるけれど、この心理学というか哲学はとてもおもしろい。


共同体感覚。家庭でも職場でも組織のメンバーは仲間であり勝ち負けを競う相手ではない。勝ち負けを競う相手と近しく過ごすと疲弊する。だから人が去る。


結局人に押し付けた悪意はいつか回り回って気が休まらない疲労になって自分に返ってくる。自業自得だとしても気の毒だ。


仲間をライバルだと思うにしても、ギリギリ切磋琢磨まで。私は身近に見たことはないけれど、本書で書かれているように、共同体の内部で仲間を引き摺り下ろそうとしたり、まして手柄を横取りするような人がいるのは困るだろうなぁ。


p27
「(人の手柄を横取りする)なぜそんなズルいことが平気でできるのか」


「そこには非常に調子のよい心理メカニズムが絡んでいるのだ。心理学では利己的帰属という。」


「利己的帰属とは、うまくいったときは自分の関与=貢献を過大視し、失敗したときには自分の関与=責任を過小視する心理傾向を指す」


「それをみっともないと思わなくて済むように認知システムそのものが歪んでしまうため、本人は悪びれずに涼しい顔をしていられる」


「先にあげた同僚の例で言えば、仲間のアイデアだということは認知システムに取り込まれておらず、一緒に話しているときに出てきたアイデアという認知になっている」


「自分の視点しか持たず(中略)、相手が一方的に合わせてくれているから成立している関係だなどということなど、思いも及ばない。このタイプにとって、会話もメールも自分の言いたいことを言って発散するためのものであり、残念なことに対話ができない」


あと厄介なのが嫉妬心。私は幸い?組織に還元できる種類の能力が低いので(生活を楽しむ能力は豊富)嫉妬されるようなことはないのだけど、組織内の仲間をライバルとして自分が努力するための材料にするのはいいだろうけど、足を引っ張る機会を虎視眈々と狙うようでは組織は立ち行かないだろうなと思う。


しかも本書によればその嫉妬心は【無意識領域】に追いやられているから、本人には知覚できないのだとか。これホント厄介。


嫉妬心から揚げ足を取っているだけの加害行為やハラスメントを、本人は「できないことは悪」「努力が足りない」と正義感で正当化している可能性が高く無自覚ピッコリーナだそうだから本当にタチが悪い。


p,28 ■ 自分勝手な期待が外れると怒り出す
「自己愛が過剰に強い人というのは、他人に対する甘えが強い人でもある。甘えの心理は、自分のことを人は常に考えてくれるべきだという思いや、自分の思うことを人が汲み取って動くべきだといった考えの中に、はっきりと読み取れる」


「そのタイプの人たち特有の思考スタイルによれば、自分が知っていることや考えていることは当然みんなもわかっていると思い込んでいるのだ。それに対応した行動を取るべきだと思っている。」


「他人が何を知っていて、何を考えているかなど、言われなければわかるわけがない。幼児期に見られる魔術的思考の典型だが、大人になってもそうした自己中心性から抜け出せない人もいるのだ。そうした傾向が強いのが自分大好き人間の特徴といえる。」


「引き立てないと機嫌が悪くなる(中略)自分が一番という幻想を、周囲の仲間たちにも強要するのである。」


オレたちの茨木のり子パイセンが「自分の感受性くらい」と名文の詩に謳いあげているが、そういう無意識の不安や嫉妬心や不機嫌を正当化して周囲に当たり散らす人を見ると、自分の不機嫌の理由くらいちゃんと自覚して、自分のご機嫌は自分で取れよ赤ん坊が、と言いたくなることがたまにある。この赤ん坊が、と。まぁ滅多にはない。


目を逸らして誤魔化してないで、ズルくて弱くてカッコ悪い自分とちゃんと向き合えよ。カッコ悪い自分を寒空の下凍えさせてないで、ちゃんと認めて自分の中にあたたかく迎え入れてやれよ。大人になるのはそれからだ。


弱い人は強い。弱さから逃げない人は強い。改めてそう思う。


健全な魂は健全な肉体に宿るなんて嘘っぱちだと密かに思っている。スポーツをゴリゴリやってきた人たちの掲げる「健全さ」はとても強い偏見に満ちていると思うのは私の偏見、逆差別だろうか。アドラー視点だとスポーツは代理戦争だということだけど、外から見ていると、スポーツ界隈の人達のメンタルは勝っている時はよくても案外逆境に弱くて脆い。


スポーツそのものを否定はしない。鍛えられるものはあるだろう。しかし強く歪むものもある、と昭和時代のスポーツ、特に部活動のあり方を振り返ってみるとしみじみ感じる。


スポーツをやってきた人で強い人、尊敬できる人を何人か見たことがある。ずっと二軍で控えで試合もろくに出られなくて、それでもそのスポーツを愛してやり抜いて今は後進を育てている、そんな人たち。そういう人は強がらないし本当に強いしステキだと思う。


スポーツに対して必要な能力が足りないとき、レギュラーの地位も仲間からの賞賛もなにも、外からのご褒美は一切もらえない中で。それでも折れない。そういうのが強さじゃないかな、と私は思う。


本当の強い球児はアルプススタンドにいる、とメガホンを握って声を張る若者たちの力闘を見ていて毎年そう思う。彼らの強さがいつか報われますように。



最小単位の組織は家族から。弱さを見せ合える家族に。人の苦しみを軽視しない家族に、していきたい。



ついでにたまたま読んだnoteの記事。これもまたよかった。私がこの記事で真っ先に思ったのは家庭のことだけど、家庭という居場所、自分が主体的に関わることができる場は、出来るだけ弱さを認め合える居場所にしていきたい。


▪️ 「居場所」じゃない職場で頑張り続けることはできない - #居場所経営 について
https://note.com/palette_lgbtq/n/n6d308c8c58ba


いやはや。話がBookレビューからずいぶんと逸れた。この本なかなかよかった。決めつけが多くて語り口はちょっとアレだけど(特に自己愛増加の背景にITを挙げた3章、引きこもりを扱った4章は賛同できない部分が多い。)、私の怒りをうまく煽ってオモテに出して発散させてくれたところが良いと思う。言うなれば、煽り上手で反語的に読み手の思考を深めるところが良い。(あれ、褒めてない?)


あと5章の医学的な話や6章の太宰治や石川啄木の具体的なエピソードは面白かった。7章は希望が持てる。


p,151
「心理学者マーカスとニューリアスは、現実の自己に対して可能自己という概念を提唱した。(中略)そうなりたい自己を正の理想自己、そうはなりたくない自分を負の理想自己という。」


「アメリカ人には夢を追求し、正の理想自己に惹きつけられて積極的に行動するタイプが多い。それに対して、日本人はリスクを恐れ、安心を求めるため、負の理想自己を意識した無難で消極的な行動に終始するタイプが多いように思われる。」


「遺伝的要因も関係しているようなのだ。(中略)日本人には、不安傾向の強さと関係すると考えられているセロトニントランスポーター遺伝子の配列タイプをもつ人が非常に多い。」


「新奇性を求める傾向と関係すると考えられるドーパミン受容体遺伝子の配列をもつ人がほとんどいないこともわかっている。アメリカ人では、ちょうど反対の傾向がみられる。」


「こうしてみると、私たち日本人は、不安が強く安心を求める傾向が強いため、リスクの少ない選択をしながら安定した立場を求め、安定した居場所を得ることで幸せを感じるのかもしれない」


うーん、わかっていたことだけど、私はどちらかと言うと日本人よりアメリカ人の思考に近いのだろうと思う。セロトニンよりドーパミンタイプかな。


p,153
「子どもに対して冷淡で関心が薄い親も、子どもに対して過保護で甘やかす親も、表面上は正反対のようでありながら、自分のことで精一杯で子どもと向き合っていないという点では共通といえる。(中略)どちらの場合も、子どもは親が自分のことをしっかり見てくれないと感じて育つ。それが病的な自分好きの下地となっていくのである。」


p,158
「自分に自信がなく、不満を持っている人は、概して自分の置かれた環境や周囲の人たちに対して不満が多く、攻撃的な思いを抱えているものである。被害者意識をもって周囲の人たちのことを批判することもある。自分に対する苛立ちが、人に対する攻撃的な感情を生む。」


「カウンセリングをしていると、自己受容と他者受容の共変(自己受容できるようになるにつれて他者受容もできるようになるというように、両者が並行して変化していくこと)がしばしばみられる。」


「自分を肯定的にみることができるようになると、人に対しても寛容になれるのだ。」


「自己受容というのは、自分は完全だといって満足することではない。(中略)欠点が多く、未熟で頼りないのは、だれも同じだ。そんな発展途上にある自分ではあるけれど、(中略)精一杯生きている。そんなちっぽけだけど健気な自分を受け入れる。それが自己受容というものだ。」


これは本当に。私の場合は自分の受容より前に愛する息子の障害受容が先だったけれど、自分や愛する人のダメなところが【心から】受け入れられたとき、それ以外の人への目線も格段に優しくなるなぁ、と実感する。自分への絶対的な肯定感があると、多少のことではイラつかないものね。揺るがない。この自分も他者も否定しない、という優しさに包まれる安心感としあわせの充足を、まだ感じたことのない人にはいつか感じてもらいたいなぁと、そう思う。(余計なお世話かもしれないけれど)


p,159
「自己モニタリングが正常に機能すれば、見苦しいほどの自己愛過剰な態度や行動はとりにくい。(中略)自己モニタリングをしっかり機能させるためには、モニターカメラのように自分を映し出してくれる相手が必要となる。ホンネで付き合える人物がいれば、その人が鏡になってこちらの態度や行動を映し出してくれる。」


「私たちは、鏡を見ないと自分の容姿容貌を確認できないように、鏡となる人間関係をもたないと自分の態度や行動の妥当性を確認することができない。思うことを率直に言い合える人間関係。それが鏡となる人間関係である。」


本書を読んで私が憤ったり不思議に思ったことのほぼ全てが、上にも挙げた『されど愛しきお妻様』に書かれている。多様性への共感的理解。この本のレビューで書くのもおかしな話だが、『されど愛しきお妻様』はすばらしい本です。ぜひ待遇の不平等や【他者の努力不足】について日々イライラすることがある人には心からお勧めしたい。平等とはなにか。満たされる人間関係とはなにか。そういうことが溢れんばかりの愛情とともに書かれている。


#今日のお歌 …【きらわないで】何万回生まれ変わってもアタシはアタシになってく。アナタはアナタになってく。
https://youtu.be/v76SRPid6y8

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