暴力とはなにか
たまたまTwitterで流れてきた加害者変容プログラム(GADHA)の代表えいなかさんのツイートとサイトを読んで色々と考えさせられた。
▪️解釈の独占と強要という加害をあなたは行なっている
https://www.gadha.jp/blog/interpretation-violence
以下はリンク先の【暴力の定義】の一部抜粋。
(言葉は文脈の中で正しく機能します。抜粋で切り取られた言葉ではなく、リンク先をぜひ読んでください)
「暴力とは本質的に「解釈の独占」だということができます。」
「DVは物理的な暴力を振るうかどうかを別として、「支配-服従の関係を作ること」だとされています。」
「それは「おれが望むように感じ考え行動せよ、おれが望まないように感じ考え行動するな」という関係です。」
「あなたが何かを「くだらない」と解釈し、それを相手に強要し、そう解釈しないことを愚かだとか間違っていると考えるのだとしたら、それはあなたがこの世界を理解できていないということです。」
「先ほど、「世界はそれぞれの人によって、異なって解釈されうる」と言いました。それが「くだらない」かどうかは、それを解釈する人によって違います。」
「絶対の真実や正しさは存在せず、共有される解釈があるだけ」
「あなたがパートナーの解釈する権利を独占する時、あなたは暴力を振るっています。」
「おそらく、あなたはあらゆる場面で解釈の独占を行っているでしょう。」
サイトの引用は以上。
心に残る言葉…存在の透明化。そして解釈の独占。
その人とちがう解釈を「正しくない」と許されないとき、訂正され続けるとき、その人に存在を認められていないと感じる。それを相手に伝えるのはむつかしい。
#解釈の自由を保証されること
#人権尊重
どちらの価値観もあっていい。私もOKあなたもOKの意見交換をしたい。
#多様性のある社会
解釈の強要という暴力。これは本当に本人からも周りからも見えづらいハラスメントだと思う。
人間関係で完全にフラットというのは滅多になくて、人が2人いれば、権力勾配というのはほぼ存在する。
それは家の中でビー玉がコロコロ転がる家に住んでいると具合が悪くなるように、専用の機材(水平器)を使わなければわからないような微々たる目に見えない程度のほんのわずかな傾斜でも、権力は確実に高い方から低い方へ圧力を加える。
権力勾配は目に見えなくても、確実に「ある」もので、それは高い側からは感じにくいもので、低い側は確実にケアを奪われている。この感覚の説明は本当に難しい。
その人といて疲れる、という感覚が生じる時、なにか小さな違和感を相手に伝えることをぐっと堪えるとき、書きかけたコメントを何度も書き直してやっぱり投稿ボタンを押さずじまいにするとき。
相手の「解釈」に異を唱えることに謎の抵抗を感じるとき、そこには権力勾配がある。夫婦関係、友人同士でさえ、親子関係ではもちろん。
そこに勾配(謎の抵抗)が「ない」と感じる場合は、おそらく自分の方が高い方にいる。
相手が機嫌を損なうことを気にせず相手が傷ついたり怒ったりすることを気にせず、「雑に」言葉を放ってしまえるとき。よく言えば「心理的安全性がある状態」…でも時に立ち止まって考える必要がある。それは相手も自分に対して
そうなのか?と。
自分の側は「言いたいことを言う」、わかってほしいと何度も伝える。相手に変容(解釈の変更)を求める。自分はただ正直なだけ。間違っている相手の考えを正してあげたいだけ。相手からしてみたら、繰り返し圧力を加えて変容を求められることはハラスメントだろう。
その人にはありのままで尊重される権利、人権がある。
異なる意見の人と意見交換をするとき、自分は相手の言葉を聞こうとしているか、自分の思いをひとつ聞いてもらったら、「あなたの意見のここは私も同意できるよ」と相手の意見の中で受け入れられる部分をきちんと相手に伝わるように示しているか、気をつけるようにしている。
それがケアのある意見交換だと思う。ケアのある意見交換とは、相手に敬意を持った意見交換。さらに言えば、心地よい人間関係は、お互いに敬意を持っている関係性だと私は思う。
これは以前書いた以下の日記で詳しく書いたので、時間のある人はぜひ読んでみてください。
▪️敬意を持つとはどういうことか
https://note.com/kirakiramamama/n/n4cefb4b50bcc
ある事象について、私はAとBとCの解釈があって、相手はCとDとEの解釈を示したとき、私は理想的には
「Cの解釈は同じだね。DとEの解釈を聞かせてくれる?」
と相手に伝えたいと思っている。(あくまで理想よ?)
「Dの解釈は私は自分では気づかなかった。ステキだね。Eはちょっとよくわからないな」
と、Eの解釈が自分に馴染まないものである場合に、どうやったら失礼にならないで相手に伝えられるかを考える。
私の側のAとBの解釈についても相手に聞いてほしいから、CやEの感想と一緒に伝えるようにするけれど、押し付けがましくならないように気をつける。
どうしても相手の意見を自分と同じに変えなくてはいけないとは思わない。(思っても、それを態度や言葉に表すのは思い止まるように努力している。未熟者ゆえダダ漏れてしまっていたら申し訳ない)
えいなかさんのツイートでこんな言葉がある。
「「何か言いたくなってしまったから言う」には、受け止める他者の存在が透明化している。「言いたい自分」しかそこにはいない。
素直に思ったことを言っただけ、などの言い訳もよく使われる。
発話には聞き手がいる。それを想定しないことは、他者と関わる責任の放棄。ケアの放棄である。」
https://twitter.com/einaka_gadha/status/1503305939516067842?s=21&t=d7IPmyz3PE-ir-8Jf2YIdA
相手がどうしても自分の解釈を私にわかってほしいと伝えてくるとき、その思いはできるだけ受け取るようにしている。相手はその事象について、自分と同じように感じて同じ思いを私と分かち合いたいんだな、と理解する。
意見がちがうときは、そう簡単に意見交換は終わらない。友人から「巻物みたい」と言われるような長い長い往復書簡になる。
意見が異なる場合の意見交換は気合を入れないといけないから(相手を論破しようという気合ではないよ、念のため)、送る前は相手を傷つける表現になっていないかチェックするので何度も書き直すし、生活のかなりの時間を取られるし、子育てしながらの切れ切れの時間の中で意見がまとまらなくてなかなか返事が返せない。
メッセージをくれた相手には悪いけど合間に気晴らしの投稿や日記や他の簡単に返せる返事を先に送ったりもする。
でも、往復書簡自体が負担だったりイヤだという気持ちはあまりない。(はやく返事をしなくて悪いなぁという気持ちはある。お互い意見に折り合いがつかない方向の流れだと相手は言い切りで終わった方が都合がよくて私からの返事が欲しくないかもしれないけれど、それはまぁお互いに語る言葉が尽きるまでとことん付き合ってもらうことになる…ゆるゆると負担のない範囲で)
相手からの新しい事実に触れて私の解釈が変わることももちろんある。自分の知らない地平を知っている人からの知見はとても貴重だ。
熱心に伝えてくれるならなおさら(たとえあなたは間違っている、という伝え方であったとしても)、その解釈に耳を傾けて、その差異や、その差異がどこから来るのかに思いを馳せることは、私の考えや脳みその中の世界(ネバーエンディングストーリーのような)を無限に広げていく。
ただその何度も続くやり取りの中で、私が相手の解釈を聞いて、質問して理解しようとするとき、相手の側から、私の解釈について一切質問されなかったり、興味を持たれないとき、自分の側が一方的に相手の解釈を理解するように求められて、こちらの解釈について理解しようという姿勢が相手から一切感じられないとき、さびしく感じる。
1回2回ならば、相手の気持ちに全力で寄り添いたいと思うし、解釈を強要するという支配を受けることを我慢できると思う。でもそれがあまりに何度も頻々(ひんぴん)と続く場合は、申し訳ないけれどその人とは距離を置く。
相手が求めているのは、ありのままの私ではなく、【相手の解釈を受け入れ続ける私】や【相手にとって都合の良い私】でしかないと感じるからだ。それは冒頭でえいなかさんが書いていた「支配-服従の関係」にほかならない。
その人との関係を続けると、いつか私は自分の解釈を許されない関係性で疲弊してしまうだろう。相手のことを大切に思うけれども、それと同じくらい私は私という生涯の友を大切にしたい。(あとその人もややこしい私なんかより、自分の解釈と価値観の合う仲間を見つけた方がいいだろう。)
たとえ相手がにこやかに丁寧な言葉を使っていたとしても解釈の強要が続くのであればそれは支配的であると言えるし、逆に乱暴な言葉遣いでも「アンタがそう言うならそれでいいよ」とこちらの解釈を許してくれるのであれば対等か、こちらの方が立場が強い(権力勾配で強い側)のだろう。
友人や家族間の瞬間的な権力勾配は常に入れ替わる。
前に譲ってもらったな、と感じたら、次は自分が譲る側、というように、できるだけお互いに尊重し合える関係、ケアし合える関係を、近しい人間関係では持ちたいと思う。
一方が一方をケアし続ける関係は不自然だからだ。それは一方の我慢で成り立っている。我慢が尽きれば、その関係も終わる。
解釈の自由は尊厳を守られるということ。
人権があるというのは解釈を強要されないということ。
今自分が両手に持てる関係性を大切に(人間関係ってそうたくさんは維持できない。私に維持できるのは両手に掴めるだけ。)、常に自分が相手に甘えすぎていないか(具合の悪いときは仕方ない。そのかわり元気な時は余分にケアする)に気をつけて、大切な人(もちろん自分も含む。大切な私。)を大切にしていける人生を送りたい。
えいなかさんの文章を読んで、そんなようなことを思った。
#写真は友人親子が来て一緒に夕飯を囲んだ時のもの 。この友人を前にすると私は本当に心からくつろげる。不思議なことに出会った最初からそうだった。(旦那もそうだったんだけど)
私は兄と弟に挟まれて育ったせいか、わりと男性といるのは平気で、女性を前にすると無闇に緊張するので、女性の友人でこんなにゆったりとくつろげる人は滅多にいない。これは本当に。
子どもの頃から人生のほとんどの時間をずっとぼっちで生きてきたけれど、大人になってからSNSを通じてできた友人。(初めて会った時、いつも日記を読んでます、と向こうから話しかけてくれた)食いしん坊の彼女にいっぱい食べさせたいし、心から大切にしたい。
#今日のお歌 …【愛のカタチ】桜舞い散る今日に。愛なんてわからない。友情もわからない。でもあなたといるとただホッとする。それがケアのある関係だと思う。
https://youtu.be/tNWMnu5TqFE
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