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【子どもの対人トラブルで親がどう対処するかについての私の考え】

まず最初に断っておくと、これはある私の大事な大好きな悩める友人の投稿へのコメントとして一旦書きかけて、途中でふと、これってものすごく上からの壮大なクソバイスなのでは?と厚顔な自分に慄いてしまい、コメントとはせずに【一般論として】、また【自分自身の問題として】書き直したものです。(その旨は友人に通告済みです。)

ロジハラやエモハラの時代…何がクソバイスで何がそうではないかの判断が難しい…コミュ症には生きづらい時代…いや逆にこうやって別の方法で発信できるのだから良い時代と言うべきか…?

わが子の対人トラブルって、どこまでわが子の味方になってあげたら良いのか、社会の道理も教えたいし、自己肯定感も下げたくない…親としてトラブルの時の接し方の線引きが非常に悩ましい、というのは誰しも経験があることではないかと思う。

発達障害に限らず子どもの対人トラブルで親には常について回る問題よな。対人トラブルがよくあったわが子の就学前の問題を加味してざっくり一般化するとこういう感じ。

・自分のルール、正しいを周りに強硬に押し付けてしまう。
・翻って自分はその集団のルールをわりと気づかずに、もしくは大した問題ではないと判断してカジュアルに破ってしまう。
・自分のしたことには目が行かず、人からされたことのみにすごくフォーカスしてメタメタに傷ついてしまう。

これってすごくあるあるなんだよなぁ…親はたぶんきっとものすごく苦しい。わが子もあとは自分自身の育ちも含めて覚えがある。周りにもたくさん見てきた。療育や教育の現場で。

本人は本当に見えてないだけ。性格が悪いとかそういうわけじゃなく、【全然全くワガママではない】←これはぜひとも強調したい。2〜3歳の幼児の頃なら当たり前の育ち。でも発達障害がある場合、他者視点を持ちづらいという特徴があって、上に挙げた上の2つの点がなかなか繋がらない。結果として集団から浮いてしまう。

ここなーーーどうしたらいいんだろうなぁ。

もうコレ実は本人は十分自己否定は満帆にしてるのよ、できれば家庭ではこれ以上親からも追加の注意とかして自己肯定感は減らしたくない。

じゃあ本人のあり方をそのまま認めたら良いのかと言えば、それは周りが納得しないし将来的にルールが守れない大人になって大丈夫なの?という不安もある。

本当に難しい。

妥協案というか折衷案として、集団のルールとしてはマズイけど、あなたの気持ちは分かるしお気持ちにのみ共感する、という方向で存在を肯定というか、認めるしかないのかな…でもなんか…なんかもっと良い方法はないかなぁ!!!という。

聡明な彼らは頭では親が道理を説いた場合の理屈はなんとなくわかっていても、気持ちの上では一番助けてほしい時に親が助けてくれずにみんなの味方をした、っていう哀しい歪んだ記憶になってしまったり、変な風に残り続けたりしてしまう場合がある。(必ずしもではないよ、過度に恐れないでね。事故と同じで不幸な偶然が重なった時とかの話)

ホントASD傾向の人が記憶力良すぎて忘れられないの、困るんだよなぁーーー。ADHDは忘れるという特技と特権を持っているので、幾多の大失敗体験からも不死鳥の如く蘇るのだけど、ASDの大人達は生きづらさにおいて常に過去と戦っている感じがする。

ある別の生きづらさを抱えた友人は、味が忘れられないので甘い飲み物が飲めないと言っていたのをすごく印象的に覚えている。それは生きていく上でめちゃんこ苦しいだろうと。(←私は甘いシュワッとした飲み物…特にコーラが大好き)

どうしても忘れられない、というのは本当に基質的な部分だろうから、「嫌なことは忘れなさい」「気にしないで」が通用する部分ではない気がして、そこを周りのケアでどうにか変更するのって難しいと思うし…

なのでどうやってトラブルの時の一番本人が辛い時に【不確かな状況でも】親がわが子の気持ちに寄り添ってあげられるのか!という課題がある。

ひとつには【黙ってしばらく抱きしめる】というノンバーバルなコミュニケーションを取ってみるという手があるかしら、と思う。

抱きしめないまでも、背中を優しくまあるく撫でながらとか、外でもどこでもネガティブな話を聞く時は必ず身体のどこかが触れるようにして、例えば歩きながら手を繋いでいたら「そうだねそうだね」という【気持ちで】あえて黙って反対の手で優しく手をポンポンとしながら聞くとか…

トラブルになった時だけじゃなく、普段から言葉に頼りすぎず、ノンバーバルなコミュニケーションを意図して多めに取るようにすると良いかもしれない。(あくまでも可能性ね)

ASD児は表情を読むのは苦手だけど、身体接触言語はより原始的なコミュニケーションだからこの部分を鍛えればその子のタイプによっては意志の疎通がやりやすくなる可能性がある。

あとはそうだなぁ…【何があってもわが子の味方でいてくれるぬいぐるみ】によるコミュニケーションとか。

■ぬいぐるみセラピーとは
https://shohgaisha.com/column/grown_up_detail?id=659

単に上のような一般的なぬいぐるみセラピーとして取り入れてもいいし、下に私が推奨するように、【中の人】として親が音声で介入してもいい。

それこそ何をやろうともどうやろうとも味方、という存在を家の中にぬいぐるみというキャラクターとして作る。音声は親。(もちろん父がやっても母がやっても良い。ここからは便宜的に母とする。)

こちらについては、装置として機能するかどうかは、お子さんとの約束においてぬいぐるみの言動を【母の人格やしがらみから完全に独立させられるかどうか】が肝になると思う。

母っていう立場は複雑で、【わが子の一番の擁護者でありながらトラブルの際はわが子と一蓮托生運命共同体的な意味では加害者でもあり、さらに言えばわが子からの一番の被害者でもある】、という面を持っているから、どんなに寄り添おうと思っても【自分】がよぎってしまうと完全に寄り添うことができないし、それを子どもも見抜くことだと思う。

ぬいぐるみコミュニケーションは、何より母親を親としての責任から切り離すための装置なんだろうな、と思う。全ての責任から逃れてわが子と向き合い、なんの責任もしがらみもなく、100%味方でいて良いんだ、という野放図な安心感や心地よさっていうのが母親の側にむしろあると思う、この手法。無責任ゆえのやりたい放題。そしてやってみてハッとするのだと思う。こんなに極限に寄り添ってしまって良いのか、と。

実行しなくても想像してみるだけで母自身が少し癒されるかもしれない。ぬいぐるみとしての自分の言動に。母としての重圧から離れて純粋にわが子を可愛がるという悦楽に。

これは教師時代のいくつかの経験で思うのだけど、トラブルが多い子の抱える闇というか哀しさに、【親からの愛が信じ切れない】というものがあって。

様々な親子の葛藤の歴史があってのことだろうと今になってみたらすごく親御さんのお気持ちが分かるのだけど、当時ペーペーだった私には、なぜ自分の子どもの味方になってやれないのか、と親を責める気持ちになってしまったことすらあった。

ココは本当にとても難しい部分だな、と思う。

けれども、子育ては完全に正しくあれなくても良い、と思う。完全に正しい子育てなんてない、とも言い換えられる。

どこへ向かうのか分からないオリジナルのオンリーワンの子育てって、不安が尋常じゃないし、その不安から正しさや正しそうな人の言うことを盲目的に聞いてしまいがちだけど、結局正しさにがんじがらめになってしまうとわが子が見えにくくなるし、楽しくなくなってしまう。

私の大好きなDJあおいさんの言葉に
「『何が正しいのか』を指針にしている人は、人の悪いところに目がいきます
『何が楽しいのか』を指針にしている人は、人のいいところに目がいきます」
というものがあって。

■ 人の良いところに目がいく人と、人の悪いところに目がいく人の違い
https://twitter.com/djaoi/status/1321127658252455936?s=21

障害のある子を育てていて楽しいことを考えるなんて無理だ、と思うかもしれないし、実際子どもの問題行動が酷くてキツイときは本当にそうだと思う。なのでいつかちょっぴり余裕ができた時にこの言葉を思い出してほしいと思う。いつか。

社会のルールを重視し、正攻法にばかりこだわるとわが子がある部分ではいつも悪者になって傷ついてしまう。時には正解が出ない時は笑ってごまかしたり、はぐらかす方が良い時もある。もちろん大事なことをはぐらかされたら子どもはそれはそれで傷つくのでさじ加減やその場の判断は大事だけれども、もし今うまくいっていないなら別の方法を試してみる価値はあるだろうと思う。

シャカリキになってその時その場で全部を親が解決しなくても、気持ちの面で時が全てを解決する場合もある。

そして対人トラブルなんてものは、【事実がどうあれ双方のお気持ちが全て】ということが往々にしてあるので、気持ちの面がクリアすればそれで良かったりもするのだ。

さて冒頭に戻って「自分のルール、正しさを周りに強硬に押し付けてしまう」の例として、ガラガラの電車でスマホを見ていたら突然見知らぬ成人男性から「電車内でスマホは禁止です」と書かれた紙を黙って手渡された、というエピソードがあって。おそらくその方はASDなのではないかと思われる。

「周りに対する正しさの強要はいかがなものか」を端的に示す例であり、発達界隈あるあるであり、実際その通りだな、とは思う。発達障害児の親として、わが子の将来を重ねてしまう哀しく切ない情景だろうとも思う。私も最初に読んだ時、あー切ないな、と思った、正直。

でも視点を変えれば、そのチラシを配って歩いていた人も、うまい落とし所を見つけたな、と思うしその取り組みには賛同したいと思う。

その方法を指導したのがその人の通っていた学校の先生なのかデイサービスのスタッフなのか親なのかは分からないけれど、一つの解決策として【黙って紙を手渡す】、というライフスキルをその人に教えたのだろうから。

そしてそのスキルはちゃんと彼の生活で活きていると思う。暴れてもいないし怒鳴ってもいない、紙を渡すだけ。素晴らしい。トラブルの可能性が最も少ないやり方で自分の気持ちを発信できている。本人が電車の中でのルール違反に対して紙で注意ができて納得できて、それで幸せならば、そのほかのことには目をつぶろう。つぶって欲しい、と思う。

哀しいかな発達当事者を定型にすることはできない。これはツライけれども動かしがたいことで。ただ、私の尊敬するカレー沢薫先生も言っている通り、【治りはしないがマシになる】。いやマジで。この本はまだ雑誌連載中で、もうすぐ話数が溜まって単行本になったら絶対に買おうと思っている。

■なおりはしないがましになる
https://twitter.com/rosia29/status/1199531155839565824?s=21

基質的なことは不動でも、本人と周りにとっての最適解は探し続けることができるし、それが多少定型の世界からすると奇異に見えたとしても、本人が納得できて、世の中にさほど迷惑がかかっていないならば、それで十分バッチグーなんだと思う。

と、ここまで一気に書いて、投稿ボタンを押す前に誤字脱字がないか読み返し…これは誤字脱字以前にものすごく上からの壮大なクソバイスだったのでは?と厚顔な自分に慄いた(おせーよ)。どんだけ無意識に文字を垂れ流しているんだ私は…(^^;;

のでちょこちょこと一般論に書き直して自分の日記として投稿します。このことがむしろ大切な友人を傷つけやしないかとハラハラしながらも。

追記・友人のお気持ちについては問題なかったようです。「クソバイスに非ず…むしろ拡散した方が良い!」と心強いエールまでいただけたので良かった…あなたを傷つけずに済んで私は心からホッとしましたよ。(私信)心の広い広い友人でよかった…きっと類友なんだな(←いつどんなときでも自分を褒めることを忘れない)…嘘ですジャンルにもよりますがわりと心は極小住宅なみに狭いです。(息子らによく言われる)

#今日のお歌… Blurの【Girls And Boys】こちら別の友人の投稿で知ったおバカで楽しい曲。友人が引用した♪Always should be someone you really love♪というフレーズが気になってググった。グニャグニャとおかしな旋律なんだけど妙に頭に残る。あとボーカルがめっちゃイケメン。以上。
http://blog.livedoor.jp/mijinco212/archives/15749125.html

#写真とか https://twitter.com/kirakiramamama/status/1321383979002392576?s=21


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