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【『兄の終い』と汚部屋考察(Bookレビュー)】

※大幅追記あり(2022.2.7)

読了。書影を撮る。
(いつもながら天井は片付いているので写真が撮りやすいなぁと思いつつ)

ステイホームの読書はとても居心地が良い。もうずっと穴籠もりでもいけると思う程に。

その反面、旦那氏には石地蔵のように本を読み続ける私と一緒にいるとつまらないようで恨みがましいことを言われる。(あと息子たちはひたすらYouTubeとスイッチに放牧状態だ)#すまぬ

あと目と腕はひどく疲れる。夢中で読んであっという間に感じるのだけど、実際には数時間は余裕で過ぎているから。目は暗闇スマホほどではないにしろ、一気読みするとずーんと痛む。

目が悪すぎて網膜剥離を2回も起こしているので、安易な目の酷使には本当に気をつけないといけない。私の目の悪さは間違いなく思春期の本の読みすぎだと思う(活字依存。完全に中毒だった)。

高校時代ひとことも口をきかなかったという爆笑問題の太田ほどではないにしろ、中高の煌めく青春時代のほとんどを、人と喋るより黙々と活字を読んで過ごしていたのだ。

小学生時代はまだ友と呼べる人が部屋に遊びに誘ってくれることがあったけれど、たいがいその友人の部屋の本棚の本を読むだけのよくわからない交友だった。「遊びに行っていい?(本棚の本読みに行っていい?)」という私の真意を見抜いて、友と呼べる人はみんな本棚の本を読み尽くすより前に疎遠になった。

友人宅の本棚が遠のくと、村で唯一の本屋に通って(当時はまだ村だった)夕飯の時間までひたすらせっせと立ち読みしていた。そのうちそれもまたビニール袋をかけられるという時代の流れとともに図書館に戦場を移した。

夏休みは暇にあかせて祖父の書斎のよくわからない同和問題会議録などを読んだりしたけれど、書いてあることの意味はよくわからなかった。(でも読む)

お酒という闇の魔法の力を借りて、大学時代からはやや人付き合いという大海原に乗り出したものの、やはりニガテなものに違いなく、飲み会終わりの同期の部屋でお酒とタバコのすえた臭いの中で、窓辺の明かりを借りて本棚の本を勝手に読ませてもらっていたりした。(酩酊して眠り込んでいなければ)

特に付き合いが希薄な大学時代にインカレサークルのどこそこ大の第何期の誰それとか、もう何期なのかわからない果てしない先輩OBの誰それ、というのが名前を聞いても顔もわからないので同期の話を聞いていてもさっぱり会話についていけなかった。

こんなことをつらつら書いていると、あのなんとも言えないすえた臭いと紙の匂いが鼻腔に香る。あれはあれで、異分子としての私を排除することなくそこに置いてくれた仲間たちのありがたさと、どこまでもひとりで他と馴染もうとしなかった自分の頑固さ扱いづらさを外から改めて思い返して申し訳なく感じる。

はてなんでこんな話に?おそらく本を読んだ直後は読んだ本の作家さんの語り口とか考え方のクセに影響されているので、たぶんこの本は私のそういう部分を刺激するタイプの本だったのだろうと思う。今回の『兄の終い』は、失われた日々への寂寥というような、そんな感情を揺さぶられる本だった。

本はいい。ひととき自分を完全に消し去ってくれる。(いいのかそれは?)私の場合は特に、本を読んだ直後は日記で自分の文体を失うほどに自分を見失う。

またしばらくしたらいつもの自分の文体が戻ってくるのだけど、それまでのこのぼうっとした、読了した本の亡霊に一時人格を乗っ取られているような忘我のひとときが私は意外と好きなんである。イメージとしてはガラスの仮面の役を演じた後の北島マヤちゃんのような。

先ほど読了直後は日記の文体が本の作家さんの語り口に影響を受けると書いたけど、村井理子さんの文体はこんな風ではなかった気がするので、なんというか、男性の行為後のいわゆる「賢者タイム」のように(身も蓋もない)、読書を通じた大きなエモーショナルな体験が通りすぎたあとの虚無というか忘我の状態の文体なのかもしれない。とにかく心が静かなのだ。

心は静かに凪ぎ、しかし充実して、目や肩はじっとり疲れている。家事も何もかも投げ出してただ惰眠ならぬ惰読を貪ったにすぎないのだが妙な達成感。

とはいえ、わが子に読書を勧めようなどとは思わない。江國香織もどこかの作品で言っていたが、あんなに子供の成長に毒になるものはない。良い点といえば多少テストの点数を取るのが得意になるくらいで…明らかにそれよりも重要だと思われる子供時代のいろんなものと引き換えに。(私は特に没入が極端だったせいもあるだろうけれど)

いやはや。目と腕は本当に疲れている。気をつけないと。網膜剥離こわい。マジで。身体の酷使を続けると、加齢とともに身体から反撃される。こわい。

若い頃スポーツマン(スポーツパーソン?)だった老母が、加齢とともに腰、膝、足首、手指と、日々身体からの逆襲に困り果てているのを順々に間近に見ているのでその怖さを肌で感じる。父親似の私は完全なるインドアで部活動を離れて以来スポーツとは無縁なのだけど、老後に目が見えなくなったらつらいよなと思う。

して『兄の終い』。筆者の村井理子さんはエッセイストということだから実話なのだろうか。村井さんはある日警察からの一本の電話を受ける。遠方に住まう兄が亡くなり、両親はすでになく、自分が身元引き受け人だという現実と直面する。そして兄の離婚した元配偶者の女性とその子供たちとともに兄を荼毘に付し、兄の住んだアパート(汚部屋)を片付け、車を廃車し、アパートを引き払う。

アパートには物言わぬ家主の、生活の跡や心の残滓がそこここに残されている。限られた時間の中でそれらをわしわしと仕分け梱包しゴミに出す。ああ、女性らしい始末の付け方だなと思った。(と言ったら昨今は角が立つのかもしれないけれど。)彼女たちは片付けを通して、さまざまな心の葛藤に折り合いをつけていく。

生活力のある人たちによってまたたくまに解体されていく生活力のなかった兄の人生。そこにはもはや悲哀さえも残らない。

汚部屋、片付けないとな。一番心に残ったこの本の感想がそれだ。

あとは読み終わったときに奥付をめくると、わっと目に入る、しおりのような、村井さんの手書きによる太字のメッセージカードが強く心に残る。

「失ってはじめて気づくことを失うまえに知ってほしい。村井理子」

本は擬似体験させてくれる。近しい人が亡くなった時のこと。近しいが故に冷静ではいられない愛憎取り混ぜた人が亡くなった時のこと。

親しい人が亡くなった時のことを感動的に書いた本は数多ありつつ、こんなふうに憎い(と言ってしまっていいだろうテーマ的には)相手が亡くなったときの心情を丁寧に拾った作品は珍しい。片付けはまた積年の恨みつらみをも解体していく。

最後に荼毘に付された温かい兄の遺骨が残り、リビングに置かれる。筆者はそれを「許し」と表現していたけれど、そこに至るには今後の時間をもう少し使う必要があるようにも感じた。もしくは理解しないまま目隠しをしたままで全て手放すことを「許し」と表現したのか。少なくとも私の持つ「許し」の語義とは違っていた。興味深い。

私は失ってはじめて気づくことを想定する相手に、誰のことを思っただろうか。やはり夫だろうか。それとも長男だろうか。自分の親だろうか。それとも義両親だろうか。

なんにせよ、こんなふうに近しい誰かが人生を終える時のことを、つぶさに、しかし余分を省いて書いてくれたことに感謝したい。

私にはまだ考える時間がある。

とりあえず掃除機をかけよう。かけられる状態にリビングを整えよう、と思った。あと石地蔵モードの私にほったらかされすぎてやや不機嫌に「買い物行ってくる」と外出した夫が帰ってきたらコーヒーの一杯も入れて差し上げよう。いやはや。(了)

#写真は書影とメッセージカードと優雅にクラシック音楽を楽しむネズミくん

#今日のお歌 …【愛のカタチ】(ぶっつけ)https://youtu.be/jI7_VCM1PQQ

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