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【『妻はサバイバー』感想】

Twitterで流れてきた記事。新刊発行に際して、ぜひ多くの人に精神疾患を抱えた患者と家族の実態を知ってもらいたい、という思いから4/28まで限定で全文公開するとのこと。早速読んだ。

障害とか家族の支えとか尊厳とか…ちょっとキツイ内容なので今弱ってる人にはお勧めしないけれど、すごく大事なことが書かれているので、ぜひいろんな人に読んでもらいたい。

執筆した旦那さんが新聞記者なので、壮絶な中にも淡々と読みやすい文章だった。

▪️書店員さんから大反響! 精神疾患を抱えた妻の介護と仕事…約20年にわたる苦悩の日々を綴った傑作ルポ『妻はサバイバー』を期間限定全文公開
https://note.com/asahi_books/n/n79fe4dfc87c0

「怖いのは、社会の中にある偏見や差別感情を当事者が内面化してしまうことだ。妻がそうだった。
「あんな人たち(精神障害者)と一緒にしないで」(中略)精神科の受診を拒んでいた時期、口にしていた言葉だ。」

当事者も家族も差別構造の中にいる。【内面化した差別】に苦しむ人は多い。

精神障害と発達障害という違いはあれども、障害者の家族として障害とともに生きるということを考えさせられた。

「妻がたびたび口にした言葉がある。
「食べ吐きは、たった一つの私の部屋なの」
 つらい気持ちでいっぱいになった時、いつでも逃げ込める。そこにいる間だけは安心できる。秘密の場所だから、誰も立ち入らせない。――摂食障害という疾患は、彼女にとってそんな「部屋」のようなものだという。」

過食嘔吐について「私の部屋」という表現が印象的だった。この奥さんはとても聡明な人だと思う。しかしそうした面も過食嘔吐や新たに発症したアルコールなどの依存によって破壊されてしまう。発達障害者も二次障害で出やすい【依存】とどう向き合うのか。そういうことも考えさせられた。

実際発達障害のある人も、二次障害で精神障害を抱えることが多くあるし、自分が医療者で原因によって効きの違う薬を処方する立場でもないのであれば、発達障害だ精神障害だと分ける必要はあんまりないのではないかと思う。同じ障害分類でも個人差えげつないしなぁ。広く言えばPTSDもHSPも、まぁ原因やなんかは色々あれど、みんな【生きづらい】と。(ざっくり)

そもそも障害を細かく分類するのは当事者の人が生きやすいように細やかに配慮するためであって、「自分とあの人たちは違う」と障害者同士で差別・分断するための分類なら弊害こそあれ意味なんてないよなぁと思う、個人的には。

心の狭いキャパの狭い【社会】というものからこぼれ落ちたものをみんな障害と呼ぶならば、これからどんどんリソースの減る先細りの社会はその分先鋭化してキャパシティは狭まり【障害者】に分類される人はどんどん増えるのだろうし、長生きすれば認知症になるリスクも高まるし、高齢化社会ではそのうちマジョリティ(健常者)とマイノリティ(障害者)が逆転するのでは?という気すらする。

繰り返しになるが、当事者も家族も差別構造の中にいる。差別される側が持つ【内面化した差別】は本当にやっかい。

逆に言えば、自分の中の差別に気付き、じっくりと向き合い、それを今後はもう自分の価値観とはしませんと、内面化した差別と決別することが(もし)できれば、障害とともに生きるのはずっとラクになるだろう。もちろんそんなもの理想に過ぎないのだけど。

これは差別を内面化している人を非難しているのではないよ。その差別意識はその人が生み出したものではなく、呪いのように外から入ってきて、いつのまにかその人の中に居座ってしまったものだから。多くは家庭や学校など、幼い頃の周りの大人の影響で。

筆者も言っている。
「彼女を責めることはできない。幼いころ、近くにあった精神科病院の鉄格子を見ながら、大人がそんなことを言っていたという。自分自身が差別される立場になるのが怖くて、「あんな人たち」に矛先を向けていたのかもしれない。」

憎むべきは構造。差別する人間もまた、その差別意識によって削られ恐怖を植え付けられている。差別する側も、される側も、両方を持つ側も、みんななかなか内面化した差別から自由になれない。

気づかない内にかかっていた呪いを解く、それはなかなか容易ではないけれど、せっかくなにかの機会に自分の中にある差別に気づいたのなら、それは手放した方が楽に生きられる。

内面化して自分や家族を蔑む自分への差別、自分の家族への差別は、自分より障害が重く苦しんでいる人(たとえそれによって攻撃的になったとしても)を切り離さないことである程度解毒できるだろうと思う。そもそも人を障害の重さや上か下かで見る縦の関係は苦しい。

「あの人たちと一緒にしないで」

リンク先ですごく印象に残った言葉。苦しむ奥さんの口から出たとされる言葉。これがまさに内面化された差別感情だろう。

発達障害のある子どもを育てていると、この言葉は目で、耳で、雰囲気で、たくさん聞いたことがある。当事者やその家族から発せられる差別の感情。目にするとかなしい。

自分より障害の度合いが重い人を「一緒にするな」と切り離したら、自分がその差別の最後尾になることは明らかで。そんなこときっとその人たちもわかってるのだろうけど(わかってないのかな?)、それでも言わずにはいられないかなしさ。どこにも行けないかなしさ。

「自分の存在が迷惑をかけてしまう」
「迷惑をかけないようにしなきゃ」

迷惑なんてかけあってナンボ、という社会になればいいのになぁ。迷惑をかけたくない、はそのまま「迷惑をかけられたくない」と同義で。お互いに迷惑を忌避して自分の存在を否定するのはかなしい。

正直私は発達障害については色々と知識があったけれど、パーソナリティ障害や精神障害についてはよく知らなかったし、それらの特徴に当てはまる行動をする人から一時期攻撃対象としてターゲットにされた経験から(周りに相談したところかなりガチ)「関わらないのが一番」「速攻で逃げるべし」という記事を心の拠り所にしたことがある。

それもまた差別だったと今になって思う。当時は、その人を理解するためではなく、差別するために知識を集めたから。アカンなぁ私。

今はもう少し余裕が出たので、適切な距離を保ってそういうタイプの人たちと関わるチカラが前よりもついたと思うけれど(理不尽な攻撃などへの自衛は必要)、そういう意味で私は自分が差別的な人間だという自覚がある。

発達障害のある子どもを育てる母親としての被害者としての自分は認識できても、自分を攻撃する人、迷惑をかける人を【避ける】という差別に加担する自分についてはなかなか認識しづらい。

関わらないようにする、ないものとして扱う、というのは立派な差別行為で。世間が許しても私はそれはアカンことだと思う。アカンと思った上で、それでもそうしなければ生きていけない弱い自分を許す。しゃーないと思う。今はアカンけど、いつか強くなってそれを乗り越えていきたいと思う。

差別はいけない。でも弱い私はそれをしてしまう。それを「差別ではない」と認知を歪めて誤魔化したり「相手にも非があるからこれはやってもいい差別なんだ」と正当化したりしないで「私には差別をする悪い(弱い)面もある」と認めて、他人の悪い(弱い)面も多少許容する。そういうのが「迷惑なんてあってナンボ」な社会なんじゃなかろーか、と思う。

清廉潔白を目指すとそれに合わない現実の方を歪めてしまうのでね。現実は現実として受け止める。ダメな私、しゃーない。ダメなあなた、しゃーない。アカンのはお互い様。

でもまぁ今見えてるものなんて自分の中のほんの一部で。自分から見えないように自分が誤魔化しているそういう【内面化した差別】を、どれだけ軽減して解毒していけるか、というのが試されているのが人生という修行?なんだろうなぁと思ったりする。仏教的な世界観では。(一応しんだら仏式の墓に入る予定なので、薄口仏教徒)


なんだかよくわからない着地点だけど、いろんな人がいて、いろんな障害があって、そういう人たちとみんなで一緒に生きていくって一筋縄ではいかないし、とても大変だと思う。


人から迷惑をかけられたとき、理不尽に攻撃されたとき、「なんも、なんも」と笑顔を浮かべられる人になりたい。その人の後ろにあるものを想像しながら。

できることをできる範囲で。自分の中にある差別を解毒しながら、自分も周りも生きやすい世の中になったらいいなぁと思う。

(「なんも、なんも」、っていい言葉だなぁ)

#今日のお歌 …【嫌わないで】
https://youtu.be/v76SRPid6y8

追記・最初「なんの、なんの」って書いちゃったんだけどなんか違和感あるなーと思ってたら「なんも、なんも」の間違いでした(笑)「なんも、なんも」は北海道の方言で「大丈夫だよ」「どういたしまして」「いいから気にしないで」などの意味なのだとか。本来お礼や謝罪への返しだから攻撃されたとき使うのはおかしいんだけど、その時は心の中で自分に向かって言うイメージかな。なんにせよ、ほっとするいい言葉だなぁと。
#なんもなんも

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