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【正義感と誹謗中傷】※長ーいよ!!


木村花さんへの誹謗中傷を行った男性が書類送検された。

色々と思うところがある。

詳しく書く時間はないのだけど、この一年、いくつかの誹謗中傷のやり取りを目にした。自分のこととしても、他人のことでも。

私も誹謗中傷に遭ったし、また他の人が誹謗中傷を受けた、と被害を申し出るのも見かけた。訴訟に発展したケースもあった。

ネットの匿名性、という偽りの鎧が、ハッキリ目に見える形で剥がれてきている。それ自体は良いことではないかと思う。

ネットでもリアルでも、都合の悪い行いはいつかバレる。そう思って生活していくのが良い。そしてやってしまったら、失った信頼をまた一から積み上げながら償うしかない。やってしまった人のことも、償って戻ってくるのをじっと待つしかない。(わりと気長に待つ派)

行き過ぎた正義感を持つのはなにも特別なことではない。

私も人の行為を見て理解できない!不愉快だ!という気持ちになることがある。多分他人のそうした行為について批判する日記を書いたと思う。それは誹謗中傷をする人の心と同じ行き過ぎた正義感によるものだ。

行き過ぎた正義感がなぜ起こるかといえば、さっき書いた通り「理解できない」からだと思う。

私はカッとなるというか「うわっ!ヒデェ、なんじゃこりゃ!!」と瞬間思う事態があった時、もし余裕があれば、後からでもとりあえず相手に「why?」と問うことにしている。直接問える関係になければ自問自答する。それでたまに歌ができる。(ラッキー)

この場合のwhyは、非難のwhyではなく、純粋に疑問のwhyである。(この違いはとても大事)

わが子の悪戯にせよ、子ども同士の諍いにせよ(←まさに最近あった)、大人のマナーにせよ、ネット上の理解を超えた振る舞いにせよ。相手に対等なwhyを投げかけることは、怒りの感情を解体する。

信じられない!シね!と攻撃するのではなく、信じられない!なんで?と礼儀正しく丁寧に聞いてみるのだ。

もちろん「あ、この人はヤバい人だ」と身の危険を感じる人には行かない。自分と家族の命を守るのは最優先事項なので。

ともあれそうやって対等に敬意を込めたwhyを渡してみると、自分には思いもよらなかった答えが返ってくることがある。それは心地よく自分の世界が広がる瞬間だ。

今読んでいる読書猿さんの『独学大全』という本でも(すごいゴンぶとの本で、読み終わるまでしばらくかかりそう…日記投稿が寡ないインプット期間はまだまだ続く見込み)、さまざまな哲学者の言葉が書いてあるけれど、多くの哲学者は、人間関係の悩みに言及している。哲学って生きることを問う学問なわけだけど、生きる上で人間関係って外せないポイントなのだと思う。

人間関係は人類が集団生活をするようになった一億年前からの(←コレ間違えました。人類誕生が6500万年前…四捨五入するにも繰り上げすぎだろう…)ずっと長きにわたり続いてきたDNAに刻まれるレベルの大いなる悩みだ。

DNAを引き合いに出したのは次男と三男を見ていても、人に対応する反応が環境要素に関わらず差がデカイから。

で、長いことたくさんの知の巨人たちが生涯をかけて挑んだ問題に、私ごときが簡単に答えを出せたり、サラッと解決できるわけがない、と思う。うまく行かなくて当たり前だのクラッカーである(古い)。

多様性とは、自分の多様性を人に認めさせることではなく、他人の多様性を自分の中に受け容れることだと思う。

思うに、世界というのは己の脳みその中にしか存在しないのだ。目の前に見えている景色も、今聞こえる音も、脳の中のできごとで。私にとってただの雑草でも、別の人にとってはハコベラや価値のある野草で、私にとってピーピーしか聞こえない鳥のさえずりも、野鳥の好きな人にとってはジョウビタキやヒヨドリなどの冬の到来を告げる雅で嬉しい声だ。

そういう意味でコミュニケーションや読書というのは、その脳みその中にある世界(マップ)を広げていくRPGみたいなものである。(私にとって)

理解不能なふるまいをする人を、なんでもかんでも許せと言っているわけではない。聞いてみてもダメなときはダメだし、そうであれば離れればよい。断固として闘うべき理不尽もある。けれども、頭から拒絶しないでwhy?と素朴に尋ねてみれば、そこには想像もしなかった新しい世界があるかもしれない。

まだ書きたいこと途中なんだけど。これにてタイムアップ。

後でここの後ろに続きと、オススメの読書猿さんによる悩み相談Q&Aと、Twitterの写真、あと今日のお歌のURLを貼って完成する予定。

ある人に頼まれた?ので、久しぶりに日記の締めに、コレを書かないとね。

では、今日も一日楽しんでいきましょう!ちゃおちゅーーーーる!!(初稿は朝でした)



さっそく追記・さっきの「多様性とは、自分の多様性を人に認めさせることではなく、他人の多様性を自分の中に受け容れることだと思う。」について、ちょっと言葉が足りなかったと思うので補足。

私ももちろん相手を受け容れるだけじゃなくて、最終的には自分の多様性も認めて欲しいのだけど、順番としては、先に相手を理解してから差し出す、という料金先払いシステムを採用している。

(これは京極堂シリーズの『絡新婦の理』という作品で木場刑事が採用していた情報収集システムの応用で、当時学生だった私は大いに感銘を受けた考え方。木場修版は、自分にとって価値ある情報を相手から引き出したかったら、先に無駄話を時間をかけて聞くこと、だったかな。そういう現場知、というような知見を私は愛している。

もちろん木場修の現場知は偉大なる京極夏彦大先生の脳の中で生み出されたものなので厳密には現場知ではないけれども。心理学として、とか精神医学として、とかそういう学術的に系統立てられた正統派の知見ではなく、断片的な在野の人々の思想から様々な現場知を集めて世界のしくみを読み解き、自分の生活に生かすのが私は好きなのだ。)

そしてあまりにも理解不能な人と相対したときに、相手を形成する価値観がその人の年齢分積み重なっていることを想えば、この最初の【相手を理解する】という工程にものすごく時間がかかってしまうことがある。相手のターンが終わる前に自分の寿命が尽きてしまう場合もあるので、そういう未来が見えた場合はあきらめる、という選択も致し方ない。人生は有限だ。

じゃあその工程は無駄だったのかと言えば、さにあらず。素朴な疑問を発すること、相手を理解しようとする営為は、怒りという感情を解体し、相手への執着から私を解き放ってくれる。自分の貴重な時間を嫌いな相手をムカムカと考えることに費やさなくて済むという結果を生む。これはその後の自分の人生にとって大いなる僥倖である。

私の好きなDJあおいさんの言葉にもある。「相手にかける時間というのは自分の命そのもの」と。怒りを感じている間というのは、相手のために自分の命と同義に当たる時間を不本意に使っている状態である。命をかけるべき相手(怒り)かどうかの見極めもまた大切だと思う。


もう一つ追記・なにかマズイことをやらかした人がいたとして、その人が叩かれているのを見て「そうだそうだ」とか「そりゃー叩かれてもしょうがない」と叩いている人を心の中で応援したり「いい気味」と留飲を下げたりするのもまた同じ種類の正義感だと思う。この場合は行き過ぎてはいないけどすごくギリギリかな。

有名なアニメ映画「カリオストロの城」で結婚式の誓いの場面に、「沈黙を持って是とする」というシーンがあるのだけど、これが当時小学生だった私には妙に印象的で。大人になってからしみじみと振り返ると、集団において「黙っている」、というのは基本的には目の前で起こっている事象に対しての肯定とみなされるのだ。

(ハヤオぱねぇ。ジブリ映画の登場人物が体現する、人生全てに使える「含蓄力」は時に私を深く唸らせる。ハヤオぱねぇ…略してパヤオ。いやほんとに。)

【黙認】という立場がいじめを助長することを考えると、私設いじめ撲滅委員会会員の私としては黙認を自分に対してあまり良しとしない。(禁止とまでは行かないけれど。)

自分の立場をあいまいにしておけば罪には問われないけれど、その場面を構成するメンバーとしてその場に是として【加担している】という意識は自分の中で常に持っておきたいのだ。

(私の中の美学?スルースキルの逆のようなモノだし、コレ結構面倒でトラブルの元にもなるので人にはあまりオススメできない考え方。)

ネットでのいじめは特に、加害者と被害者がすぐに入れ替わる。ヤバい場面を目撃した私はいつでも自分の美学に縛られて誓いを迫られるクラリスの気持ちだ。可憐。(たとえ見た目ががんこちゃんでも。)

私の心の中の裁判員制度には、【賛成・反対・黙認・保留・利害関係にないので中立・どちらかと言えば反対だけどあえて表明するほどでもない】、という6種類の立場がある。(今考えた。)また新情報を得た場合、立場の変更はいつでも可だ。

この黙認・保留・中立・非表明の反対、は全て沈黙で表されるため、自分以外の人の意思を確認する際に、沈黙の取り扱いは非常に難しい。世の中の意思のほとんどは沈黙で成り立っている。その沈黙を想像するのが「空気を読む」という技能であり、ある種の巫女のように神がかり的に読むのが上手い人もいれば、どこかの局の天気予報の如くに外すことの天才もまた居て、私はどう考えても外す方の天才なのだ。やれやれ。

#読書猿さんのマシュマロQ &A
▪️9割の人が知らない「嫌な感情」に飲み込まれてしまう人がおかす致命的な誤り
https://diamond.jp/articles/-/251007

▪️ 「あいつが悪い! 許せない!」と怒り出す前に知っておきたい悪の本質
https://diamond.jp/articles/-/257147

#只今のワシの教祖・DJあおいさんの金言
▪️人をイラっとさせるコミュニケーションとは
https://twitter.com/djaoi/status/1338876622712160256?s=21

さらに一つ追記(しつこい)・上の読書猿さんのリンクにも通じるんだけど、ある人がルール違反をしたとして、その人を懲らしめなくてはいけないという葛藤が自分の中に生まれたときに、そのルールは誰のための何のためのものかを考える必要があるかもしれない。

まず社会が丸く収まるための大前提として、「人の嫌がることをしない」という集団を維持するためのルールがあると思うのだけど、そのルールが守れないほどの理由があるのかどうか、という部分。これは相手に聞いてみないとわからないことが多い。聞いてみたところで理解できないことも多いのだけれども。でも集団のルールを逸脱する側にも、逸脱するだけの理由や自分法則がある。許す許さないはともかく、岩明均先生がヒストリエの中で多用する、「文化がチガーウ」というヤツである。

ちなみに全くの余談だけど、岩明均先生が絶賛している『チ。』という、学者たちが命を賭して地動説を教会に認めさせるまでを想像上の世界観で描いた魚豊先生の漫画が非常に非常に面白いのでオススメである。(なんのこっちゃ)

「チ。」が今2話無料キャンペーン中だった。冒頭からいきなりちょっとグロイので、寄生獣が大丈夫な人向け。 https://booklive.jp/product/index/title_id/846637/vol_no/001

#写真とか…(余ったシウマイとワンタンの皮でアップルパイができるまで…引用リツイートは最近繋げられないので自前のツイートだけ繋げましたん。けっこうめんどい。)https://twitter.com/kirakiramamama/status/1338429520437645312?s=21

#今日のお歌…オリジナル替え歌・【ママは焦らず】コミュニケーションも焦らずだわな。理解不能が許せるようになったのはネズミくんの子育てによる功績が絶大。理解不能をそのまま受け容れる日々。ママは毎日空回りだぜ!!
https://youtu.be/yBAII-r2gRQ

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