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ニワトリと卵、あるいは退路と進入禁止

たとえば「主張の強い人」
目につく鼻につく

ウザイと言って(思って)しまえば切り捨てられる。そこで関係が切れる

切実なんだな
自分をわかってほしい人なんだな

と思えば近寄らないまでも途切れない

メンタライゼーションを知ってから
人にはモードがあると知った

ひと時だけのその人で判断しない
行動の奥にあるものを見る

人に向けた「ウザイ」は自分にも返ってくる
自分がウザイ行動をするのが許せなくなる


心底許せないと「なかったこと」にする
自分のことなのに投影して人のせいにする
自分を被害者にする
正当化する

でも本当はそうじゃないと心はわかってる
だからどんどん無理が出てくる

自分が自分に切り捨てられたら終わりだから
必死に誤魔化そうとする
でもどんどん誤魔化せなくなってくる
心が悲鳴をあげる

つらくなればなるほど
メンタライズのモードは落ちる
健康なメンタライズモードから
ごっこモードや心的等価モードに

人を切りつける言葉は
同時に
自分の退路を断つ言葉でもある

外の世界を切りつけると
自分の中の世界も同じだけ切り刻まれて
狭くなる

ここから先は
「ウザイやつ」になるから進めない
「ダメなやつ」になるから進めない

「気が利かないやつ」
「バカなやつ」
「不潔なやつ」
「仕事のできないやつ」
「思いやりがないやつ」
「ケチなやつ」
「だらしないやつ」
「正義感のないやつ」

心の中にそういう進入禁止の場所が多くなる
人に使った言葉で切り刻まれて
どんどん自分の世界が狭くなる

もちろんそうやって自分を律する面もある
自分が許せない部分で
自分の美しさができていることもある
凛と背筋が伸びる

ただそれの度が過ぎると
自分に許せる場所が極端に少なくなる
本当は自分も「そう」なのに
本音ではそうありたいのに
他人の中にある「それ」を許さないで
無理に切り捨てて否定すると

心は自分に嘘をつくしかなくなる
自分に嘘をつくと心は非常に苦しい
心だけはそれが嘘だとわかってるから
意識は騙せても、無意識は騙せない

心はどんどん迷宮化して
意識と無意識はが反発しあい
自分で自分が制御不能になって
暴走状態になる

突然キレたり暴れたり逆に落ち込みすぎたりを
頻繁に起こすようになる
気づけば周りに人がいなくなる
(もちろんこれはテキストにある極端な例)


切り刻んでしまった世界をつなげる
世界を広くする
そのために
人を切り捨てない言葉を使う


ウザイをやめて、

あの人は切実なんだな、わかってほしい人なんだな、と思う。そう口に出す

そうするとウザイゾーンの進入禁止のバリケードが外れて、自分もその先に進めるようになる

自分が他人から見てもしかするとウザイかもしれないことを言ったりやったりするのを
自分に誤魔化しや正当化なしに自然に許可できるようになる

自分は切実なんだ、わかってほしいんだと思えたら自分に「どうわかってほしいの?それはなぜ?」と聞ける

次に進める。推進する


鶏が先か卵が先か
許すのが先か許されるのが先か

でも多くの場合それは同時に起こる

許せば許されるし、許されたら許せる
どっちが先かはわからない
でもどっちかが根本の部分で「心底」起きたら
もう片方はその時もうできている

心ってふしぎだ。

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