見出し画像

価値観を「内面化する」とは?

※今回めちゃくちゃ長いよ、しかも結論は出ない。(暇な人向け。)

ここしばらくずっと私が個人的に気になっている日本語に「内面化する」という言葉があって。SNSのコメントのやり取りなんかでここのところ何度か遭遇している。

これを言われたときはなんとなくわかったような気になって「ふぅん」って通り過ぎるのだけど、いざ自分で使おうとすると、イマイチどうやって使っていいのかわからない。

こりゃー言葉の本質を理解できてないな、と改めて思った。

困ったときのGoogle先生に、「内面化する とは」で質問ドラえもんしてみると、オレたちのWikipediaこと Wiki先生がサラッと回答してくださる。

(しかしオレたちのWiki先生はたまにガセネタも掴ませてくるから要注意だ。脚注と出典、執筆者も念のため参照しよう)



「内面化(ないめんか)とは、その社会が有する価値と規範を、自分の価値と規範として、受け入れることを指す。内在化ともいう。」


ふむふむ、なるほど。なんかわかるような、わからんような。

つまり価値観を内面化するというのはアレかな、「やらされてる感」から寿司屋のバイト並みに「ハイ、ヨロコンデー」の状態になることかしら、ウワベだけじゃなく。

えっ、もしかして【社畜根性を身につける】ってヤツなの?あるいはシューシュポスの神話…(不条理を受け入れると幸福になる的な?)価値観の内面化って一体…オレたちのWikiでは、さらにこのように続く…


「内面化により、集団は円滑に集団目標を遂行できるようになり、個人は円滑に集団から受容されるようになる。安定した精神構造をもたらすメカニズムであり、これが働くことで人間関係における精神状態を形成することがある。」


おお、ふんわり理解するにええことやんか。しかしなんか後半の日本語に若干の違和感。「これが働くことで人間関係における」どんな「精神状態を形成する」んだ?それとも「人間関係における精神状態」という状況そのものが【ある】か【ない】かの二者択一パターンなのか?

「内面化により、賠償金や刑罰などの手段で、規範を外部から個人に強制する必要はなくなる。違反行為は、個人が道徳により内面で裁くからである。」

んん?なんか内容が不穏というか、雲行きが怪しくなってきた。ここ「内面化」の大事なポイントな気がするーーー!!

集団の価値観が内面化された個人が集まって作り出す集団というのは、安定した精神状態を作り出すとともに、個人よりも集団が優先される状態ということ?やはり社畜根性を叩き込むのはブラック企業の基本であり、社会がそれをやれば同調圧力ハンパない【ブラック社会】が出来上がるのでは…?

ところで一個前の違和感がなんとなく解決したぞ。精神状態の前の「ある」が抜けていたのかな。

私の内面のモヤモヤや小さな納得感をよそにWikiはさらに続く…


「また、ある価値と規範を受容した個人は、それを受容しない個人に嫌悪・憎悪などの感情を抱き、内面化を他者にも強制するようになる。」


やっぱりーーーー!!!こりゃーまさに同調圧力ど真ん中ぢゃないか…私のキライな…!!内面化…オソロシイ子…!!さらに続く…


「面接や自己紹介の場で、呈示した自己と自己概念の間に不一致を感じたとき、認知的不協和を解消するために呈示した方向に自己概念が変化することがある。この現象を自己呈示の内面化という。自己呈示の内面化は、行った自己呈示が注目を受けたときや好意的に評価された場合に強く生じる可能性がある。」


ああ、これは平たく言えば自己紹介や面接で猫をかぶって「エエカッコしい」をした場合に、周りからその猫を褒められてしまったがゆえに引っ込みがつかなくなり、猫をかぶり続けた結果、ホントに猫になっちゃった!!(マギー審司口調で)という状態ね。

同じことを言ってるはずなのに前者と後者の口調の温度差よ!!!前者はちょっと頭が良すぎて他人を寄せ付けない感じがすごいし、後者は頭が悪そうだ。品格が損なわれすぎるというか。2人はトモダチになれない気がする…表現をわかりやすくすると頭が悪そうに見えるのはなんでだろう。なんでだろ〜う、なんでだろ〜、ナナナなんでだろ〜う。(いつもの脱線)

後者をもうちょっと補足すると、後からつじつま合わせをするために自分の内面の方をねじ曲げるというか…「あー、そうそう、そういえばうっかりしてたけどオレ最初から猫だったわ」みたいな?(あくまで猫にこだわる)

これやっちゃってメンタル的には大丈夫なのかしら?猫じゃないのに猫であり続けるの(ジコガイネン?を変化させる?)ってかなりキツイことじゃないかと思うのだけど。

なんにせよ価値観を内面化することによって「どんなことが生じるのか」、ということは、集団の視点からも、個人の視点からも、なんとなく掴めた気はする。肝心の内面化することそのものの意義はともかく。(そこは相変わらずふわっとしている)

なんかどうにもピンと来ないのが、外からの価値観をあたかも自分の価値観のように受け入れて内部に規範意識が植え付けられる、つまり洗脳されて社畜根性がしっかり身につくわけだけど、その内面化された価値観はもともとは外から来てるので、本来はその個人の価値観と違うはずなのに、それをうっかり自分の物だと錯覚してうっかり洗脳されてしまうということ?

そんなことってあり得る?ウルトラアリエール??

どうにもしっくり来ないのは、私個人が内面化がニガテで常に集団規範の内面化に反発してしきたから異分子として安定して集団に受け入れられず、かつ同調圧力をかけられ続けてきたからだと思うのよな。

意味はなんとなく理解できても、それを自分が実践?できる気がしないというか。

でもそもそも、こんなふうに常に前提を疑い集団を疑う私の意識そのものが偏屈な父親という遺伝子レベルで似通った性質を持つ価値観をいつのまにか内面化した結果かもしれず…ううん父よ余計なことを。(他罰的思考)

ちょっと他の例も見てみよう。そろそろ明るくなってきて子ども達も起きてくるし、いつまでも脳内で言葉遊びしてる場合じゃない。

と、ネットを探っていたら、とても面白い文章に当たったのでこれをじっくり読んで今朝は終わりにする。めっちゃ興味深いから時間のある人はぜひ読んでみてほしい。


▪️ 内面化された規範の呪縛
http://surume.org/2016/01/post-662.html


ひきこもりの人たちの苦しみがまさにこの価値観の内面化によるものじゃないかと考察している。


なるほど!内面化とは別の言い方をすれば自分の脳内に【イマジナリー自粛警察】を住まわせることなのか。そう考えるとイメージしやすいな。ならば私もある程度内面化はしてる。ただ最終的にそれを振り切って行動するというだけで🤣


いわゆる「ひきこもり」の人たちは、その脳内の【イマジナリー自粛警察】によって行動を制限されすぎて個人の行動の自由が奪われてしまって身動き取れないような状況にまでなってしまう、内面化の究極形、という感じか。


私の説明だとちょっと品格が損なわれすぎるので、記事内で引用されている参考文献から原文を引用。(ややこしい)


「「現代の『ひきこもり』は、自分自身と向き合うこととは違う。既存の価値観を内面化し、自己点検を繰り返し、その内面化した価値観に合わない自分自身が社会に漏れ出すことを必死になって防いでいる。そうでなければ社会での居場所を失うと感じ、その不安と恐怖と戦っている。だが、どのようにしても漏れ出す生身の自分を隠すことはできない。ひきこもりは『自傷行為』だと多くの経験者が言う。そうすることでかろうじて生き延びることができる、その人なりの逃げ道だ。」(杉山春著、『家族崩壊ー「ひきこもり」から問う』ちくま新書、p29-30)」


うーん、ひきこもりが自傷行為だとすると、本来は止めてあげたほうが本人の苦しみを減ずるようにも思うけれど、自傷行為によってかろうじて自分の生存を自分に許しているようなギリギリの状態の人からその手段を奪うことは、それもまた危険な行為であると思われ…むつかしい。


上の文献引用を説明して筆者はこう述べる。


「『自傷行為』という表現にあるように、切れば血が出るような、自らを切り刻む、痛みを伴った行為なのである。逃げないことも、逃げることも、共に苦しいのだ。」


その背景についての考察もまた興味深い。


「「経済成長が鈍り」、第一次産業や第二次産業が、他国との価格競争で脅威にさらされる中で、70年代以後、日本社会は急速に第三次産業化していく。米や車、など「モノ」を売っていた時代から、「サービス」という付加価値を売る形態に社会が変化していく。すると、「モノ」の標準化だけが求められていた時代から、「サービス」の標準化に、ひいてはその「サービス」を提供する、人間の標準化・規格化圧力が強まったのではないか、と僕自身は考えている。」


そうなんよなー、モノを売る時代から、サービスを売る時代に変わって、人間そのものが商品としてパッケージ化され始めた。だから苦しいんだな。規格外の商品(人間)は売り物にならないから弾かれる。子ども達の時代になってそれはますます強まっている。


なんだよもう、そんなの精神の奴隷時代じゃないか。なんとかならんのかよ。


「社会自身の標準化・規格化・制度化が進む中で、このような「偏り」は「魅力」ではなく、「逸脱」と捉えられる。その中で、「逸脱」を障害や症状として捉える社会的合意が構築されていったのではないか、と僕自身には思えてならない。」


ざっくりまとめると、そうした時代背景を経て、商品規格に合わない【不良品】に対して【発達障害】というラベルがどんどんと貼り付けられるようになった模様。でも規格が厳しくて、どんどんラベルが貼られる人間が増えてきた。

いったん【規格品】として出荷された(大人になって働き出した)人間(商品)にも、塗装が剥がれたり、使用する中で不具合が次々に見つかりリコールされるようになる。(いわゆる大人の発達障害の増加)それがちょうど今の状況なんじゃないかと。


「障害とは個人の中ではなく常に個人と社会の間にある」とある精神科医の先生が言っていたけれど、まさにそうだなと。なんだか世知辛い世の中だねぇ…


そもそもの規格が無理なんだよ。人間が機械みたいにミスしないで働き続けるとか、それでいて笑顔でヨロコンデーって行き届いたサービスをし続けるとか。そんなのちっとも人間的じゃない。人間は商品じゃない。人間は商品じゃない。(大事なことなので2回言いました。)社会に求められる無茶振りに応え続けて自分を蔑ろにし続けたらそりゃーメンタル壊れるよ。


ミスをするから人間なの。理屈に合わない非効率的なことをするから人間なの。無駄を楽しむから人間なの。生きていたら老いていくのが人間なの。色んな凸凹があるから人間なの。


そんな凸凹を排除してツルツルぴかぴかまんまるなのが真っ当な人間だなんて、そんなわけないよ、ちゃんちゃらおかしいよ。それこそそんな瑕疵なく傷ひとつないなんて非人間的だ。


人間が人間らしくあることを否定して、人間性を捨てろと迫られたらそりゃーひきこもるって。間違っているのは人間ではなく、社会だ。これを読んで改めて私はそう思うよ。


この【精神の規格化】の前段階として【労働力の規格化】があったと筆者は言う。まるで第二次対戦中のドイツのT4作戦みたい。ユダヤ人虐殺の前には障害者虐殺があった。差別は最初は区別が見えやすいものからより区別しにくい見えにくいものに侵食し被害が広がっていく。


「規格化された労働力の外にある、子ども、高齢者、障害者をケアする役割として、「専業主婦」も発明される。その上で、手のかかる子どもは「学校」に、高齢者や障害者は「老人ホーム」や「入所施設」「精神病院」に預けることで、より効率的に社会を規格化し、労働生産性を高めようとした。」


「社会の労働生産性を重視した結果として、労働生産性という価値に不適合な、つまりは社会が「標準」と定める価値規範から逸脱している個人が排除されていく。そして、多くの人はその排除を「不安や恐怖」と捉え、その排除から免れるために、労働生産性という標準化された価値規範を内面化し」たのだと言う。


たしかに、少し上の世代の人たちの「精神病院」に対する忌避感は私たちの世代よりずっと大きいと感じる。それは社会が【労働力という価値観】を至上のものとして個人に内面化させた結果、精神病院に入ることがそのまま労働力としての価値を剥奪されることを意味したからではないかと思う。


【役立たず】の烙印を押されることは社会的な死に等しい。まさに「働かざるもの食うべからず」という言葉と価値観が内面化され、常に人々の口から飛び交っていた時代なのではないかと思う。


そして今はさらに時代が進み、【単純労働】は機械化されたり海外の安い労働力に奪われ、【サービス業という労働に従事できること=労働】という時代に突入した。


つまり令和の時代は、極端に言えば【サービスのできない=空気の読めないヤツは生きる価値ナシ】という価値観を内面化したオソロシイ時代なのである。


子どもというものは大人より順応力が高い。途中からそういう社会になった我々より、最初からそういう社会に育った子ども達世代は、空気が読めないことが露呈すると社会的に死んでしまう!ということを事前に敏感に察して、じゃあ最初から空気を共有するのをやめるわ、と学校に行くのをやめるようになる。これは時代の必然なのでは?という気すらする。


どないせいっちゅうねん、という話である。


その解決策として、記事内で引用された『家族崩壊ー「ひきこもり」から問う』の著者である杉山春さんは、【我が子に他者性を持つ】ことを提案している。


「我が子に他者性を持つことは、実は、現代の新しい『規範』なのではないか。だが、親自身が自分自身が生きてきた規範から自由になることは、案外難しい。それ以外の生き方を知らないからだ。」(p199)」


親子同一視で労働力や労働効率を高めた時代から、親子の境界線を引く他者性の獲得へ。価値観は時代とともに移り行く。単純労働をパッケージ化はギリギリできても、人間の精神をパッケージ化なんてそもそもできないのよ。その歪みが生み出したのが、今のメンタル総崩れな日本社会じゃあないの。

この杉山さんの提案を受けて筆者は言う。

「ひきこもりを社会的に解決するには、ひきこもりの「矯正」ではなく、社会の構成員一人一人が、自らにも「内面化」された「抑圧」や「暴力」を自覚することが必要不可欠なのだ。僕自身はそれを「枠組み外し」と命名した。」


自己責任ベースの思考ではもはや社会全体の歪みを抱えきれないところに来てしまったのだろうと思う。そもそも個人から人間性を剥奪するような人間の標準化規格化を求める社会の歪みを個人に背負わせていたことが問題なのだ、よくよく考えてみれば。生き物はそんなふうに生きるようにはできていない。


「「自分自身が生きてきた規範から自由になる」ことが、自分を開き、他者を開き、他者の価値観、つまり「他者性」を肯定することでもある。同調圧力が強い、標準化・規格化された社会とは、この「他者性」が極端に抑圧された、単調な社会である。その息苦しさをどう突破していくか。」

子世代を抑圧から解放し、親自身も子と我が身を縛る苦しみから解放されるために、親が自分自身が生きてきた【規範から自由になる】……書くのは簡単だけど、それはすでに内面化した価値観を剥離することでもあるから、文字通り親世代は自分自身を引き剥がすほどの痛みを伴うだろう。

【枠組みを外す】ことがこの抑圧された個人の呪縛への突破口となるか。社会動物である人間が、自ら社会規範であるところの枠組みを外すことはできるのか。

価値観を「内面化する」、という語義を会得しようとして思わぬ熱い論考に出会ってしまった。こういう偶然の出会いを私は歓迎する。しかし今日は朝もはよから脳みそフル回転で色々考えた。いやはや。

#そんな朝からぐったりした日は 、せめて写真はお気楽なものを。お天気の良い日に気持ちよくお布団とともに干される我が家のダイオウグソクムシの巨大ぬいぐるみをば。ふかふかになった。https://twitter.com/kirakiramamama/status/1485077912823148545?s=21

#今日のお歌 …【ばかみたいに溢れる涙とか】
https://youtu.be/UjDEIgvsiGk
思うに、涙が出るっていうのは、理屈じゃなくて内面の発露だから、その理由を、その心の声を、「なかったこと」みたいに軽視したり「ダメだ」と抑圧したりしないで、よくよく胸に手を当てて聴いてみることなんじゃないかと思う。それがもしかすると【枠組みを外す】ってことにつながるのかもしれないなぁ…などとつらつら思ったりする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?