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【宿題と子どもの自尊心と】


私は宿題やって勉強嫌いになるくらいなら宿題なんぞ無理にやらんでいい原理主義者なんだけど。(先生には躊躇なく全力で謝る。いつも心にオズワルド伊藤を)

本人にはやりたい気持ちがあって(そりゃ学校で肩身狭いものなかわいそす)、別にやらんでいいけどやらないと本人がつらくてやりたいならじゃぶじゃぶ手伝ってやんよとも思っている。バッチコーイ。

要領のいい三男は宿題は「ママ手伝ってー」と要領よく甘えるし答えのあるものは躊躇なく見まくるくせにテストはできていたりする。

次男は変に真面目で「自力でやる」「答えは丸付けの時まで見ちゃいけない」など母に頼らず答えに頼らず自分でハードルを上げまくって結果期日までに終わらないことが多く、テストもまた振るわなかったりする。(愛すべき不器用)

「宿題ができない僕はダメなやつ」って次男がしおしお萎れながら学校へ行く背中を見送るのはかなしい。宿題なんぞにウチの大事な次男を削られてたまるかとも思う。

(まぁ私に似て「忘れる力♾無限大」なので一瞬後にはそんなことすっかり忘れてキャッキャしてたりもするのだが。よきよき)


次男には次男のプライドがあり、その芽生えたばかりの淡い矜持は、母親という濃くて強いコテコテの存在に自分の領域に侵入されることで簡単に損なわれてしまう。

よかれと思って手伝うのもまた次男の心を削るのだろう。私が削ってどうする。


その辺りのせめぎ合いがむつかしい。


ただ、リマインドはする。5日ほど前から「進んでるかい?」と声をかけたり目顔で問いかけたりしている。プレッシャーになるのは承知しつつ、なんせ私と似たタイプゆえリマインドされないとそれこそ今が夏休みであることすら根こそぎ忘れるので。


そんな膠着(こうちゃく)状態だった状況が今日ひとつ溶けたので書いておく。


先週ゴミ捨てをサボったので2週間分のゴミが生活を物理的にも精神的にも圧迫し始めていた夕暮れ時。

「たのむ、すまん、ゴミ捨て手伝ってー」

と声をかけると次男

「わかったー。じゃあママ、宿題手伝って♪」


おお!交換条件、ナイスアイデア。


これで晴れて堂々と宿題を手伝ってもらえる次男の顔は明るくて、一緒に両手にゴミ袋を抱えながら、ニコニコとゴミ捨て場に向かった。

昼間降った雨の水たまりを避けながら、ぴょんぴょんスキップするみたいに跳ねる背中がうれしくて、私もまたキライなゴミ捨てをためといてよかったなぁと晴れ晴れした。(おい)


お互いにニガテな部分を助け合う。それっていいんじゃないの、と思えた。

一方が一方をいつも助ける一方的な関係だと、助ける方も負担だろうが、助けられる方だって自尊心はズタズタだ。


そんな関係はしんどいな。助ける方も、助けられる方も。


親は子がオギャーと生まれたその時から我が子を助けるのなんか当たり前で(できるかどうかは別として…あと当たり前じゃない親もいる。主語がでかい)、いつだって助けてやりたい、苦しいのを代わってやりたいと思うけど、それじゃいつまで経っても子は自分の人生を始められないんだな。


苦しみも悲しみも痛みも失敗も全部、息子の人生は息子のものだ。息子以上に悲しんだり、いつも隣で親が息子以上に苦しんでいたら、息子は自分の感情がわからなくなってしまう。


息子の人生に寄り添うとき、あくまで私は伴走者だ。


当事者に寄り添う。でもその人本人より苦しんだり悲しんだりして、その人の感情を追い越してはいけない。その人の人生を奪ってはいけない。悲劇の主人公になってはいけない。


今年の夏至に、周回遅れで映画『ミッドサマー』を見た。

若者たちが訪れる、カルト宗教の村。奇妙に明るくて、不気味さが漂う。

その不気味さはどこから来るのだろうと考えると、ひとつ心当たりがあるのは、その村には自他境界がないのだ。まるで個人などなく、村そのものがひとつの意思を持っているかのように。

泣いている主人公を取り囲んで、村の女性たちが泣き叫ぶシーンがある。主人公に同調し、忘我の状態で身も世もなく身体を揺すって。


ああ、これをやられたらたまらんな、と思った。あのシーンが一番怖かったかもしれない。


それはずっと私が母親からされていたことだから。私の悲しみは母の悲しみ、私の誉れは、母の誉れ。何かあるたびに私以上に気を揉み感情を揺らす母に抱きつかれて、ずっとそうやって母に感情を明け渡し、人生を奪われてきた。


だから私は子育てでいちばん気をつけているのは息子の人生を奪わないようにすること。息子がどう思うのかを引き出し、それでいいと勇気づけ、自分の感情でそれを塗りつぶさないように細心の注意を払う。


そんな母だって子育てに無関心だった祖母に傷ついて、ずっと「私を見て」と叫ぶ幼い自分を胸に抱いて、そうならないよう私を見続けてくれたのだろう。


だから子育てなんてないものねだりだ。


自分が与えられなかったもの、与えて欲しかったものを、わが子に与える。じゅんじゅんに。それで満たされるのは子ではなく親なのだろうと思いながら。


息子たちは私の接し方がよそよそしくて物足りなくて、将来自分の子やパートナーには暑苦しいくらいぎゅうぎゅう接するのかもしれない。でもそれでいい。


私たちはそうやって満ちてゆく。足りないものを時間をかけて満たしてゆく。


そろそろ次男も思春期に入って、目線を合わせて親と対等な部分も作りながら(全部ではない)、関係を結び直さなきゃいけない親子関係の新しいフェーズに入ってきた。


赤ちゃんと大人くらい能力値が離れていればいざ知らず、小学校高学年はもう、身体も心もそろそろ大人と同じことができる。できないのは社会的に責任を負うくらいのことだ。それは別に私がやるからいい。


そろそろ本格的に家の中に民主主義を布く時期だなと。『幸せになる勇気』でも最近読んだ、アドラー心理学的な「親が独裁者にならない」家庭運営。裁量権を得るにはまずは家族の構成メンバーから支持を得て選挙で選ばれないと。完全に対等でフラットな人間関係。まぁそこまで厳密にはやらないけど、原則的には。できるかな。


これはゴミ捨てに行く時の私のツイート。


「次男は夏休みの宿題をためにため、私はゴミ出しをサボりゴミをため…似たもの親子め

そしてゴミの中から命のサイクルが始まりそうなので(一部始まったorz)これから一緒に捨てに行く

ゴミ捨てを手伝ってもらったら次男の宿題を手伝う約束になっている…苦手な事は助け合い

いってきます〜」


さて起きよう。ネズミくんの深夜覚醒に付き合って細切れ睡眠を繰り返していたら目が覚めてしまった。


いよいよ夏休み最終日。次男はうまく私に頼れるかな?まぁうまくいってもいかなくても、やってみよう。


ではでは、私のことが好きな人もそうじゃない人も、みんな良いことがありますように。
ちゃおちゅーる!(これ久しぶりだな)


最後に友人に教えてもらったNetflixのブラジル版クィア・アイという番組からめちゃくちゃ心打たれた出演者のコメントを抜粋。


「力いっぱい愛されたい」

「人生は短いんだ」

「少ししか愛されないなんて耐えられない」


そうだから、少し(部分的承認・条件付き)の愛じゃなく力いっぱい(全肯定・無条件)の愛で満たしたい。自分も、子どもも。なかなか難しいけどね。


#今日のお歌 …【ワットアワンダフルワールド(邦訳私家版)】泣く子は育ち、人は老い、多くを知り、いつか去る…そう繰り返す、ワットアワンダフルワールド…ほら満ちてくる、ワットアワンダフルワールド…yeah
https://youtu.be/9v0yUf-VgFo

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