博愛の真相とASDの特性と飴ニケーション
博愛とは果たしてなんだろう、ということに少し興味がわいたので、仕事の定休日に大掃除をしなくちゃという責務を先延ばしにしつつ、その辺を少しだけ掘ってみることにする。
辞書的な意味では
「Oxford Languagesの定義 · 詳細
はくあい
【博愛】
ひろく平等に愛すること。
「―主義」」
とある。
私的には博愛はTwitterで最近見かけた下のこれに近いんじゃないかと思って。私もすごく心当たりがあって。私の持つ博愛(自分で言う)はこれに近いんじゃないかなと思う。
「ASDの人は人間に興味がないと言われるが、ASDの脳は人間を特別視しないっていうのが近い。」
私は昔から動物も物も割と人間と同列に扱うから近しい人に頭おかしいって言われる。種を超えて無生物を超えてそんな感じだから、人間同士の差は当然つかない。
なんなら相貌失認傾向もあるのでハーフの人(最近だとダブルとかミックスと呼ぶのかな)とそうでない人の違いもあまりわからない。(夫に芸能人など「この人ハーフだよね」と言われて毎回びっくりする)
一般にニホンスズメとセイヨウスズメの見分けがつかないように人の見分けもつかない。(実はニホンスズメとセイヨウスズメの違いの方が見分けられたりする。羽の色と体型のスリムさ具合で)
これは情報入力と視野、タスク記憶の問題ではないかと思う。ただそれが私の博愛と呼ばれるものに加味されているのはあると思う。興味がないわけではないのだが、どうしても人間の個別性を覚えたり見分けたりが苦手なのだ。(むしろコツさえ掴めば動物の方が以下略。人間は特徴の情報量が多くてパンクする)
閑話休題。
種を超えて無生物の境をこえて、まして人間同士の差などつけられないので(そもそもあまり見分けられない)、親密さを相手に態度や言動で示せず親密さを仲間内に表現することで結束するタイプの人に嫌がられる。
態度や言動の差を意識してつけるのが難しいので、最近はひたすら飴を渡すことで解決しつつある。
この場合飴は比喩ではなく本当に物理の飴で。
自分が飴を食べたいタイミングで同じ島(同じ部署)の席の近い先輩と上司に飴を渡してから食べる。さすがに毎回ではないが、週に1〜2度程度。
安直だけど、同じ釜の飯じゃないけど、同じタイミングで飴を食べると親密さが増すような気がする。少なくとも「私はあなた達を敵対視してませんよ」というアピールにはなるように思う。
ただ私がやたら飴を渡すせいで先輩が気を遣ってお返しをくれるようになり先輩は人間ができているので社内全体に配って回り、それへのお返しも回ってくるようになり、社内全体に菓子配り文化が波及してきて皆に余計な出費をさせてすまないと思う。
私は金銭感覚が希薄なので飴をいくら渡そうが痛くも痒くもないが(家計を把握してないため)家計をちゃんと管理している周りのパート主婦にとって今までなかった配り回る用の菓子代は大きいような気がするし、せっかく旅行に行っても土産物を配る文化のないサッパリした社風だったものを、意味不明の菓子を配り回る空気や社内文化を我が身の、コミュ障を補う保身のために私が作ってしまったとしたら悪いなと。
まぁそうしてくれと頼んだわけではないので先輩に謝罪したりはしないのだが、前はしていなかった菓子配りを先輩がしているのを見ると申し訳ない気持ちにはなる。(先輩も同じ島だけに配れば負担が軽いのに…とKYの私などは思うがそういうわけにはいかないのだろうな、ちゃんと周りが見える人からしたらとますます申し訳以下略)
ただ同じ島だけ配るのは私の場合、「親密さ」とは他との対応の差別化であるという知見を得てから(※)、周りと差別化して「あなたは私にとって特別ですよ」の親密さを態度の代わりに(態度を変えるのはできないので)物で伝えるためにあえて島だけに配っているところもある。(私の偏見だが特に上司はこの特別感や親密さの濃度を大切にするタイプのような気がしているため)
あとは自分の食べたいタイミングで都度席を離れて配り回るのはめんどくさい。さっと最小限の動きで隣と前にさりげなく大仰にならず渡せる範囲というのが継続には重要なようにも思う。
※「親密さ」とは差別化である、というのは以前Twitterで「友達のお子さんの絵が絵画展に入賞できなかったけどすばらしいから見てほしい」のバズツイートに「これを入選させなかった審査員は見る目がない」という返信があり、これは褒め言葉としてどうなのか(※※)、という話に参加した時に、私や他のASD特性が濃い人は「人を褒めるために他者を貶すのはあまり心地よくない」を表明したのに対し、「この表現が目に入る可能性が限りなく低い審査員を気にして、目の前にいる親密な友人を励さないのは逆に冷たい。それは平等性ではなく近くの人を蔑ろにする態度だ」というような返しに衝撃を受けた経験による。
距離の近い人をエンパワーするために、距離の遠い人を少し辛口に評する、実際に伝わる可能性が低いなら、それは力強い親密さの表現になる、というような。関係性には例えば同じ同僚などの距離感でも密度のようなものがあるのだと、ウチソト(内外)で表現を変える、特に外に対する塩対応は内に対する温もりを際立たせる意味があったのだと、女子トークで盛り上がっているのは単なる陰口ではないのだなと(それでも私は苦手だが)、その時衝撃的に、雷に打たれたように、ヘレンケラーのウォーターのように、理解したので。
ただ私にはその親しさの濃度を測る計器は脳みそに搭載されていないので、別の方法で補う必要があって。それが代替的に今回の飴ニケーションに繋がっているという、そういう話です。わかりにくいかな。
※※元ツイートの引用埋め込み表示を貼れたら簡単なのだけど、色々試してみたけどうまくいかないので、その時のご意見をいくつか抜粋引用させてもらう。(抜粋というのはツリー全体から見た時の抜粋という意味です。)
◾️発端のご意見
「私は相手に共感するために、味方であることを声高に表明するために、相手にとっての敵をこき下ろす形で共感する所作を【溜飲(を下げるための)コミュニケーション】と呼んでるのだけど、定型さんの感覚ではあれは悪意ないから許されるのかしら?」
◾️それへの私の引用ツイート
「私も「審査員のセンスを疑う」に攻撃性を見出してしまうなぁ。自分がもし審査員で「あなたのセンスを疑う」と言われたら悲しいから
攻撃性がない、問題ないの感覚がわからない…自他境界の問題?
それで盛り上がる雰囲気だと多分乗り遅れる。私がグループトークに馴染めない理由のひとつ。ノリが悪い」
◾️さらにそれに対する引用のご意見
「ここ、すごく興味深いところなんだよね。
目の前のその人より、会うこともないだろう審査員に「同化」?するところ。
この絵は素敵でしょ?と子の絵を自慢したいの意図に応えようとしてる、のところよりも、
遠くの人にも目の前の人にも「平等にしよう」としてるところ。
それは「全人類への平等性」でもあって、とても素敵なポイントでもあれば
「目の前の人を軽視している」になってしまうポイントでもあって。
個体認知と、相互理解の時は、すれ違いを起こしやすいポイントの一つだなぁと思っている。」
「全人類への平等性を重視する人から見たら、私は依怙贔屓しかしない不当な差別主義者に見えるだろうな、とはすごく思う!!
私は私の好きな人が大事だし、遠くの人の重要度は高くないからな。
親密度で態度変えるし、一貫性がないって言われたら、その通りだよなーって思う。
一方で「個体として親密度が高い人を大事にしたい派閥」から見れば、全人類平等主義者は「自分を高みにおいて正誤を裁いてる」人にも見られやすいし、相手の「特別な気持ちからの貢献を見落としがち」だろうなとも思うのだねぇ。
だからここは「すれ違いポイント」なんじゃないかと思うのだ。
「親密度で表現を変化させる」派の会話を、「全人類平等主義」派が見たら、それはとても「攻撃的で、自分達だけしか見えてない」に見えるだろうなぁとは、想像する。
個体同士は関係性で歴史と経緯と「共有された情報」が多いから、関係性の外の人から見たら「意味も訳もわからない言葉」を応酬する。」
「この辺の「平等と贔屓の間に」の話は。
結婚前は「派閥にとらわれない、平等さが優しさに見えてた」けど。
結婚後には「自分のことを大事にしてくれない、自分の立場だけを優先させてる」に感じられる
なんかでもよくある「すれ違いポイント」だと思ってるよ!」
ざっとこんな感じなのだけど、改めて読むと本当に素晴らしいご意見だなと。(これはあくまで抜粋なのでよかったらコピペ検索してツリー全部を読んでみてほしい。)「親密度」!!知らなかった。「親密度によって表現を変える」も。
ずっとブラックボックスだった世界の裏側を見せてもらった気分。こういうのって本当にSNSの素晴らしい側面だと思う。
今までそれ以前の段階で弾かれていたので女子グループのウチソトの内側に入り込んだことがないので、その内部の温かさを享受したことがなく、世の「シスターフット」「女性の連帯」と呼ばれるものが実感として全然わからなかった。
(むしろウチソトの外のひんやり感のみ享受していたのでそうした女子グループ特有のエンパワーメント文化にミソジニー(女性嫌悪)を加速させていた。)
特にここ
「子の絵を自慢したいの意図に応えようとしてる」
相手の意図に「応えようとする」ことを良しとして評価し合う。ここがおそらく私の感じたシスターフットの真骨頂ではないかと思う。
(個人の感想です。もし的外れだったら有識者の方はぜひ指摘して🙇♀️)
逆にいえば「応えようとしない人」は断罪され得る。私はずっとここで弾かれてきたので、ここがASD傾向のある人には狭き門だなと感じた。
この方もおっしゃるように、その親密さから漏れた人間からしたらそれはマイクロアグレッション的な攻撃にもなり得るという。
私が飴を同じ島にしか配らないことで他の島には密かに傷ついている人もいるかもしれない。(逆に同じ島は一方的に渡されて内心迷惑に思っているかもしれない)
その辺の塩梅をうまくバランスをとっていくのは大切だと思うし、自分が誰かを傷つけるとしてもそれを選択するのだという自覚と責任は持った上でやる必要があると思う。神ではない私は全人類に飴を配ることはできないのだし。
やばいそろそろ息子ネズミくんの卒業後の進路候補先の見学時間が迫っている。(本人と下2人を連れてタダ飯を食べてくるというナイスな見学ツアーだ)
雑に総括すると、博愛は私の美点ではあるが下手すると近くの人を蔑ろにするリスクがあるので長短取り合わせて上手に運用しましょうということです。(そして私のこの特性をリスク面ではなく美点として見てくれる人を私は得難い心の友として大事にしたいと思う。心から)
ちょっと深掘りしてみて改めて博愛はとても私の実践している愛情表現を的確に表しているというか、言い得て妙な修辞句だなと。(決して茶化しているわけではないよ、真面目にしごく真っ当に。)
人間を特別視しないというか、全体の中の自分すらn分の1にしてOne of them の数値としてカウントしてしまうというか、愛していないわけじゃないのだけど、その愛はとても平等で、全体に降り注ぐ雨みたいなもので。
社会的に色々と足りない分を私は飴で補う。
▼引用元URL
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