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【友人では近すぎる】

おざます。6時間睡眠。最近コロナでなんのイベントもなく、不要不急に人と接しないせいか私生活も穏やかなりしで、特に掘り下げて書きたいというテーマが無いのだけど…そうか私は日記で問題解決を図っていたんだったなと今さら再確認…なので自分のTwitterからネタを探してみた。以下昨日の呟き。

あー今日は1日楽しかった。車屋さんで馴染みの店員さんと喋って、楽器屋さんで馴染みの店員さんと喋って…あ、私好きなジャンルのお店の店員さんと喋るのめっちゃ好きなんだなーと改めて気づいた🤣久々だったのでとても楽しかった✨
#三男が描いた父母の絵が特徴を捉えすぎて草 …お似合いすぎる🤣

ということで、今朝は【私と店員さん】について書こうかと思い立ち、あれこれ記憶を探って表題のテーマに落ち着きました。暇な人はお付き合いください。

日記の中で何度か言っているけれど、小中高と友人らしい友人が居ないでずっと本ばかり読んで生きてきた。小4くらいまで男子のドッチボールに混ざっていたけれど、小5の途中くらいでなんとなく「女子はやらないもの」という空気が分かって入らなくなった。(その頃生理が始まったのも大きいのだろう今思えば)

なので一番辛かったのが小5の昼休み。やる事がなくてほとんどずっと校庭をぐるぐる一人で歩いていたんじゃないかな。飼育小屋の前でニワトリをひたすら見ていたり。その頃の事はたまに鮮明に夢に見る。すれ違った同級生の顔とか。

教職についていた頃に聞いた「小5クライシス」。まさにアレだったのかな、と。女子は小5で一回人間関係がすごく壊れるのだとか。小5の転入生は苦労する、というのも聞いた。ググっても出てこないから、先輩の先生の独自の見解だったのかな…。

ともあれ、友達の家に行ってもずっとその友達の本を読み、暗くなったからもう帰る、と声をかけて帰るような子だったので一緒に遊んでもつまらなかったに違いない。当時はSST(ソーシャルスキルトレーニング)とかなかったし、やりたいように、特に自分の中で不都合なく生きていた。(今もか)

友達が居なくてすごく悩んでいたかといえば、移動教室や班決めの時などは嫌だったけれど、でも我が家は子供にチャンネル権は無くトレンディードラマは見なかったし(当時東京ラブストーリーが全盛だった…そんなに見たいとも思ってなかった…むしろドラクエの方が気になった)、友達が欲しいという思いとは裏腹に、知らない話で盛り上がっている中に混ざる辛さに比べたら一人でいる方がマシだなぁと思っているフシもあった。

人に合わせるのが今以上にキライだったのだと思う。無理に気をつかうとシぬ病かなにかだったのかもしれない。まず世間話ができない。

これは大学の頃当時彼氏だった旦那に面と向かって注意され(明日の天気の話題についての受け答えの正しいやり方のレクチャーを受けた)るまでは、自分が知らない話を振られると「知らん」とか「私に聞くな」という類の最悪な受け答えをしていたらしいので、それ以前の私は世間話というものを全くしてこなかったと思われる。

つくづくこんな女と何年も付き合った挙句に結婚までした旦那は危篤な人物だと思う。MOTTAINAIに続いて世界にはばたいた日本語で言うところのHENTAIだったのかもしれない。ありがたいことである。

で、そんなコミュニケーション力がポンコツな私が楽しくお話できるのはお店の店員さんくらいなもので。思うに大人のSSTなのかもしれない。少なくとも向こうは仕事なので、お金、という分かりやすい対価に応じてこちらの話に付き合ってくれる。

友人関係というのはどうにもあやふやで、ちょっとまだ私には理解が難しい。相手にとって時間を使わせるだけの価値が私の話にあるとは思えないので、家族・親戚など、もう逃れられないカテゴリーに属してしまった場合(気の毒)を除いては、夕飯をご馳走するとか、何か対価を渡さなさないと話に付き合ってもらうのは悪いと感じる。

旦那曰く、私の話はオチがなく非常につまらない上に長いそうなので、気の良い友人達をそんなものになんの対価もなく付き合わせるには忍びない。

なのでいつも喋りたい時は夕食に招くのだが。コロナでなんとなく気が咎めているうちに他者との関わりが無くなって平穏な毎日である。

私にとって店員さんとのお喋りは動物園でシロクマやライオンを愛でるのに似ているのかもしれない。絶対に攻撃されないという安心感のもとに様子を間近に見て触れ合える。

他者は猛獣のようなものなので、憧れや触れ合いたい気持ちはありながらも、同じ檻の中に入る勇気はない。見方を変えれば、逆に私が猛獣なのかもしれない。少なくとも同じ檻に入るのは自分か相手にとって命がけになりかねない。

なので、お互い檻の外から商品の受け渡しに必要なやりとりをする、ついでにちょっと興味のあるジャンルの雑談をする、という程度の関係が心地よい。たまに行きすぎてしまうのだけど。

少なくともペットの名前を間違ったり、お子さんの性別や年齢をさっぱり覚えていなくても、絶対に気を悪くされない(むしろ店員さん相手の場合にはあんまり雑談の内容を覚えている方が気味悪がられる可能性すらある)という安心感は他に替えがたい。

世の中には友達が居ない奴はダメな奴だ、という常識がまかり通っているけれども、そんなことも無いと思う。友達という日本語ができたのって確か明治以降だったのじゃ無いかしら。そもそも日本に友達なんて概念はなかったのだ。

たしかに歴史を紐解けば、近代以前の人々はみな生きるのに精一杯で、友達作りなんて悠長なことをしている暇はなさそうである。

あと私個人に関して言えば、自分がちゃんと一番身近な友人として自分にとって機能するようになった中年以降、そんなに寂しいと思う事はない。自分と良い友人になるのが一番簡単で楽しいのでは無いかと思う。簡単なようで意外と難しい。自分にだっていくらでも裏切られるし、なにより自分にごまかしはきかないので。

ともあれ、自分に満足した結果、外に求める人間関係は店員さんで十分だなぁと思う。今のところ。

※ちょっと追記。この投稿は今いるありがたい友人への拒絶ではない、念のため。勿論新しい友人を拒否しているわけでもない。ただまぁ目に見えない友愛の扱いは私にとって大変難しいのでいつも申し訳なさとセットになるのは如何ともしがたく、たまーーーに「ちゃんと対価を得てますよ」とアピールしてもらえると助かる←めんどくさい系HSP

※さらに追記・以下友人とのコメントのやり取りコピペ。

知り合いと友達の違いは積極的に誘い合うかどうかかな?たしかに大人になると子どものように「私たち友達だよね?」って確認しませんよね(^^;;

今回の投稿は、友達、という好意だけで成り立つ関係が怖い、という事を書きました。「あなたといると楽しい」というようなメッセージが定期的に無いと、相手にとってちゃんと役に立っているのかどうか心配になってしまいます。

これは逆に「役立たずは価値が無い」という、障害者の人権に関わる生存権に対して私自身が懐疑的であるという自己矛盾を孕んでいます。

息子に対しては、「生きているだけですばらい。役に立たなくて良い」と感じるのに、自分に対してはそうは思えない。

なかなか業の深いものです。

いつか友人関係では生産性という呪縛から逃れたいなぁと思います。

#写真とか
https://twitter.com/kirakiramamama/status/1283237881914392577?s=21

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