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「消費社会の神話と構造」を読んで②

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ざっくり整理すると、、、

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こんな感じですか、、、
社会システムは経済成長を最優先に動いており、社会的弱者への再分配も行うが、あくまで経済成長を最優先の中で、「ひずみを安定させる」ものとしての再分配のようなものではないか?(平等を目指しているのではない)
また、いくら社会全体の富が増えようが、その社会の中での特権階級と貧困といった階級差はなくならないし、社会構造上両者が必要になっている。
上の階級は下の階級との差異を出すために消費をするが、富・お金といったものが差異化要因にならなくなってきた。そうなると特権階級は、差異化するために文化や教養などで区別してきた。(例:老舗しか入れない会とか)
その中で、上の階級に行けない下の層は、行けないことを悔しがって「超消費」をする。。。

未開社会の特徴である、集団全体としての「将来の気遣いの欠如」と「浪費性」は真の豊かさのしるしである。われわれのほうには豊かさの記号しかない。

狩猟採集社会では、将来の備蓄などもせず、今だけを生き、備蓄もしないから浪費もしていた。アフリカの部族には「未来」という時間軸もないと聞いたことがありますが、余計な情報や知識で、将来や老後の心配をし過ぎてしまっている現代人にとっては、一度どういったものなのか感じたら良い価値観な気がします(知ってしまっているから無理だと思うが)

民主主義社会でも完全に作動している階級やカーストの最適表示過程。
あらゆる欲求は記号と差別の客観的・社会的欲求したがって再組織されることになる。
「節約は反アメリカ的行為である」消費はひとつの社会的労働なのだ。
個性化、自然化、機能化、教養化、

この辺は単なるメモです。

差異の崇拝はもろもろの差異の喪失の上に成り立つ。
現代の独占的生産は、決して単なる財の生産ではなく、常に諸関係の生産であり、もろもろの差異の生産でもある。
限定的な差異自身が微妙なヒエラルキーに服従している。
例:経営者と同じベンツを買ったセールスマンがクビになった。
→使用価値としてのモノの前では万人が平等だが、厳しいヒエラルキーのある記号や差異としてのモノの前では全然平等ではない。

個性化と呼ばれる地位と生活程度の追求が記号の上に成り立っていること、モノや財それ自体ではなくて、差異の上に成り立っていることを理解するのは非常に重要だ。
流動的な人間の消費に制限を加えるものは、極めて少ない。だが、その制限の1つに成り上がりものに対しての向けられる上流社会からの抵抗。
上流社会の人間はわざわざ目立つように控えめな消費をするという戦略によって、新しく仲間入りをしてこようとする人間たちに対して、上流社会は境界線を築こうと努める。
知的「ミゼラビリスム」(貧困者のふりをすること)
「プロレタリスム」(無産者のふりをすること)
不要な状態での自動車やセカンドハウスを持つことの理由は、基本的な規定性(見せびらかしの差異効果)を受けていることの口実でしかない。
順応とは、地位の平等かや集団の意識的均質化ではなくて、同じコードを共有すること、ある人々を他の集団の人々と区別する同じ記号を分かち合うこと。
かつて、生まれ、血統、宗教上の差異は交換可能ではなかった。流行上ではなく本質的なものに触れていた。現在は、服装やイデオロギーや性の差異さえも消費の巨大な連合体の中で互いに交換される。
アメリカでの「クワキウトル型」と「プエブロ型」
どちらも北米のインディアン。
クワキウトルは気性が荒く、闘いと競争を好み、裕福で、ポトラッチ(祭りや儀式)においてキチガイじみた消費をする。プエブロは柔和かつ有効的で、つつましい生活に満足している。
暴力的で競争的な文化、きちがいじみた儀礼的・画一的消費という支配的文化とヒッピーの放任主義的・多幸症的・逃避的サブカルチャーとが形式的に対立している社会。
疲労とは潜在的異議申し立てなのである。自分自身にむかうほかにない、自分の肉体に「深く食い込む」異議申し立て、それが疲労だ。
アメリカの都市で暴動を起こす黒人がまずは自分の住む街に火を放つのと似ている。
疲労とは慢性的かつ無意識的反抗といういみでひとつの活動。
かつては階級的秩序の象徴であった拘束された記号が、あらゆる社会階級にとって「無差別的に接近可能な記号」となることが、「消費社会」の成立条件だった。

階級的秩序がなくなり解放されたか?

無差別的に接近可能になったものが、今度は差異表示記号として機能しはじめた。その結果消費が社会全体を均質化するように見えて、消費を通じて社会の内側に差異のシステムが構築され、誰もが差異のコードに自分自身を記号化して書き込まないといけなくなる。
あらゆる種類の反社会的言説、消費社会に対する批判的言説さえもが、消費対象として記号化され「回収」されてしまう。
それが、欧米消費社会をしのぐとも思える、集団的消費社会(帰属集団と同じものを消費し続けないと誰もが不安になる社会)を実現した。
差異かされた記号としてのモノの流通・購買・販売・取得は今日ではわれわれの言語活動であり、コードであって、それによって社会全体が伝達しあい語り合っている。これが消費の構造であり、言語である。
こうして消費社会では、あらゆるモノやサーヴィスが商品化されると同時に、消費者相互間の微妙な差異を表示する言語記号となり、消費者は日々の消費行動を通じて、全社会規模の差異のネットワーク上で際限のないコミュニケーションから逃れられなくなってしまう。

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