くらげ系(途中)
「最後だから酒を飲もう」と提案したのは言うまでもなく会長――入出梨子だった。
本校舎裏の、地盤沈下でも起こしてるみたいに傾いた部室棟。その二階廊下の手前から奇術部、新聞部、昭和文化研究部、ミリタリー研究会、耽美研究会ときて、奥に行けば行くほど胡散臭くなっていくという暗黙のルールに従い、最も突き当たりに押し込められた"人権擁護会"アジトにて、いつも通りに僕と会長と百々山さんが顔を突き合わせ無意味に時間を浪費しているときのことだった。
「僕ら高校生ですけど」
「おおっぴらに言ってないだけで酒なんてみんな飲んでるだろ。まあ打ち上げみたいなものだし、無礼講だな。安心しろ、嶺淵」
法権力の前に無礼講もクソもないだろう。とりあえず会長の宣言が冗談でないことは目を見ればわかった。僕は否定も肯定もしない。確かに最後くらいパーッと騒いで思い出づくり、というのは僕らのスタンスには合わないけれど悪くない提案のようにも思えた。
「たしかにこんな時期ですから、警察もそんな厳しくチェックなんてしてないっスね!」
百々山が相槌を打つ。彼女は基本的に会長の発案には反対しない。それは最年少だからというのもあるんだろうが、発案者が責任を負うというこの会の基本的な原則に基づく部分もあるだろう。そしてわざわざくだらない事を発案するのは、いつも会長しかいない。つまり"何かあっても悪いのはこいつだから別にいいか"。あどけない顔立ちとは裏腹にそこそこ計算高い人だと思う。根本は間違いなくお気楽だけど。
「ところで会長はお酒飲んだことあるんスか」
「まあ付き合い程度にはね。同好会の会長という立場上、断るわけにもいかない席に呼ばれることもある」
「呼ばれるって……学園生徒の99.9%に認知されていない同好会の会長が呼ばれるところなんて熱心な風紀委員のところくらいですよね」
「まあそれは置いておいてだな」
急に立ち上がったかと思えば、会長は掃除用具用のロッカーを漁り始める。部室は手狭だが、三人だけが入り浸るには余分なスペースも多い。ロッカーくらいならまだいい方で、誰のものとも知らない木製のクローゼットや謎のドラム缶、脈絡なく設置されている薬品棚など、備品とさえ言えない昔からの住人たちがそのスペースを占有している。一際奇妙なのは机の上の円柱形をした小さな水槽で、中ではいつも一匹のクラゲがうかんでいる。餌をあげた記憶もないのに平気な顔をして生き続けているのだが、どういう仕組なのか誰にもわからない。あるいはただのスクリーン上の映像で、生きたくらげなんて存在しないのかもしれない。でも水槽をシェイクすると彼女もまた迷惑そうにゆらゆらと揺れるのだ。
ちなみに会長の言葉によればこの部室は代々最もすぐに廃部になりそうな同好会に割り当てられていたとのことで、部屋の持ち主が変わり続ける一方で持ち運びの面倒な備品たちは放置され続けてきたということらしい。
「実はつまみも用意してあるんだ。本当は来週の卒業祝のためなんだが、急な話だったからな」
「え、校内で飲む気っスか!?」
「どうせ今日は誰も来てないさ。ていうか律儀に部室棟まできてるのは我々くらいだぞ」
「いえ、けっこう別れを惜しんでここに集まってる部活やサークルも多いみたいっスけど」
「そうかあ……みんな居場所がないんだなあ……」
他の連中も、よりにもよってその場で飲酒しようなんて考えるほど部室に固執してる人には言われたくないだろう。
「ああ、あったあった」
「そんなところにあったものなんて食べたくないんですけど、缶詰かなにかですか」
「いや、鰻の蒲焼」
「なんでまた鰻なんて……」
「絶滅しそうなんだろ? 今のうちに食べておけば絶滅行為に加担したと主張できるからな」
「まあどうでもいいですけど、いやどうでもよくないですけど、ロッカーに入れておいたんですよね?」
「冷蔵庫があればもちろんそこにいれたんだが、高校の部室にそんなものがあるわけないからな。ああでもちゃんと保冷剤は入れておいたから……」
会長が長机の上に鰻の蒲焼がパッケージングされた発泡スチロール容器を人数分配る。大特価半額のシールが剥がされずに残っていた。こんな突拍子もない事をする割には堅実に節約しているのがちぐはぐだ。
「安心しろ。これは経費で払う」
無論こんな訳のわからない同好会に活動費など支給されないため、経費とは会長のポケットマネーを指す。彼女の細い瞳が少し感慨深げに揺れていた。そして試すように、値踏みするように……それでいてどこか縋るような視線を僕らに向ける。
「あ、結構高かったんだなこれ。定価が1200円だから半額でもワンコインオーバーか。けっこういい鰻選んできてんですね」
それはたぶん模範解答だった。会長が満足そうに頷く。左肩にたらしている三つ編みが小動物の尾みたいに揺れた。やはり小物臭さの隠しきれていない人だ。そもそも千円台ではいい鰻でもないのではないか。相場なんて知らないが、うな重と来れば千円札では太刀打ちできなさそうなイメージがある。
横では百々山が包装をはがして訝しげに臭いを確かめていた。鰻の蒲焼に特有のタレの香りが密閉された室内に充満するが、腐臭のようなものは感じられなかった。
「だからちゃんと保冷剤ももらって鮮度は保ったと言ってるだろうが。つまみが不味かったら興ざめだろ」
「そうなんスか、会長ってデリカシーないからてっきり……いえ、あー、それで本当に飲むんですか?」
「この入出梨子に二言はないぞ。ちなみに退学の危険を犯したくない部員は出ていってもらって構わない。押し付ける気はないからな」
「まあ、いまさらそんなことは……」
「私も。確かにいまさらっスよね」
「いい部員をもって幸せだよ私は。ちなみに酒も経費で落とすから安心しろ」
「まあ酔っ払うぶんにはいいかもしれませんけど、鰻にはあわないんじゃないですか」
「え、飲んだことあるの?」
「まあ友達の付き合いとかで。でもアルコールの味ってあんま好きじゃないんですよね」
「そうなのか……嶺淵はけっこう不良だな……ていうかやっぱりみんな飲んでるんだな……」
ぶつぶつとなにか考え込んでいる会長をよそにして僕と百々山は一缶ずつ取り出す。確かにアルコールを口にしたことは何度もあるが、よもや校舎の中でそれを手にするというのは、やはり背徳的な感覚から切り離せない行為だった。なんだか背後が気になってしまう。ただの打ちっぱなしの壁なのだが。百々山も同じ気持ちのようで、なんだか妙にぎこちない仕草で缶を眺めたりしていた。基本的に僕らは平凡な高校生であり、最後の活動だからといって開き直れるようなものでもない。
「えと、ちゃんと鍵しめてありますよね!?」
「誰も来ないと思うけど、一応はね。ていうかまあ、会長の無礼講発言に同意するわけじゃないけど、バレてもなんにも言われないんじゃないかなあ」
「そ、そうっスよね!会長じゃなくて嶺淵さんがそう言うなら安心できます!じゃあグビっといっちゃいますか?」
「待て、乾杯の音頭は私が取る。乾杯しないで飲みはじめるのはコミュニケーション能力の不足を疑われるぞ」
「なにに乾杯するんですか。こんな日に」
会長が半ばパイプ椅子を蹴飛ばすようにして立ち上がる。大きな音をたてたことに自分で驚いたらしく軽く振り返ってから、改めて咳払いをして告げた。
「では"人権擁護会"の未来を祝って乾杯しよう」
「けっきょく最後までなんの活動をするのかわからなかったっスね」
「いままであれだけ説明したのにか!? ていうか水を差すんじゃない、ええと……」
その時だった。不意に全身の産毛が逆立つような感覚が走った。
ついで、世界が揺らいだ。
「電気がっ……」
会長の叫び声が轟音でかき消される。激しい振動で備品のどれかが、あるいはその全てが倒れたのかもしれない。
部室に窓はなく、寿命の近づきかけていた蛍光灯を失ったことでこの空間には完全な暗闇が満ちていた。
振動は治まる気配がないどころか、一秒ごとに強まっているようにさえ感じられた。会長の声に百々山の悲鳴が重なる。僕はもはや座っていることもままならなくなって地べたに投げ出されていた。
どっちが上で、どっちが下かもわからない。右手に持っていた缶チューハイが零れたのか、体のあちこちに冷たいものが降り掛かった。気持ち悪い。
なにかに体を強く打ち付ける。鈍い痛み。恐怖もないことはなかったが、あまりの振動の激しさと前身を揺さぶられる感覚のために、僕の思考は急速にそのまとまりを失っていった。
すぐに誰の声も聞こえなくなった。
◯
「最後だから酒を飲もう」と提案したのは言うまでもなく会長――入出梨子だった。
駅から続く商店街。ほんの十年前と比べても閉じっぱなしのシャッターが増え、随分と活気がなくなっていた。その一角、ほそぼそと営業を続けている個人経営の焼肉屋で、僕ら"人権擁護会"のいつも通りのメンツは顔を突き合わせていた。たまたまなのか、他のテーブルは全て空席だ。
テーブル中央の金網は既に十分熱せられてはいて、ほの赤く燃え続ける木炭から金網越しに熱気がここまで届きそうだ。ただ肝心の肉がまだ乗せられていない。牛タン塩のついていない格安コースと通常コースのどちらにするかで会長が未だに悩んでいるからだった。
「コースじゃなくて単品で頼んだらいいじゃないですか」
「ダメだな。それだと割高だ。必要以上に金を使うことは資本主義社会の円滑な回転に貢献することになる」
「せっかくの卒業祝いなんだからいいじゃないっスか」
「ま、まあ萩ちゃんがそう言うならいいか」
会長が通常コースと三人分のビールを注文する。僕らはどう見たって高校生以上大学生未満といった風体だが、年老いた店主は何も言わない。無論それがわかっていてこの店に来ているのだけれど。
「しかしあれだな。私たちの活動もこれで最後だと思うと感慨深いものがあるな」
「けっきょく最後までなんの活動をするのかわからなかったっスね」
「いままであれだけ説明したのにか!? 」
お通しのキムチをつまむ。自家製だろうか。なんだか妙に水気があって、スーパーの既成品の方がおいしい気がした。肉もビールもなかなかでてこない。全て店主が一人で切り盛りしているのだからしかたないのだろうか。昔に家族で来たときは店主の奥さんもいて、若いバイト店員も何人かいて賑やかな感じだった気がするが、時代の流れというやつかもしれない。縁もゆかりもない老夫婦に起きた生と死のドラマに思いを馳せ、なんとなく感傷的な気分が心中に波打った。
その侘しさに耐えられず、意味もなく店内の様子に目を向けてみる。申し訳程度に韓国風のレイアウトの中で、隅に飾られている水槽がなんともミスマッチだ。水槽の中では揺れる水草に紛れてなぜかクラゲがニ匹だけ漂っていて、それがまたえもいわれぬ侘しさを後押ししてくる。
「だから"人権擁護会"の活動理念はその名の通りに人権を擁護することだろ」
「いや意味分かんないっスよ!」
「人権擁護ってのはつまりだな、人が幸せに生きられるように、人がその権利を認められるような社会を……」
「それくらいはわかります! でもそんな活動一度もしたことないですよね!?」
「告白に玉砕した嶺淵を励ましたりしてやったじゃないか」
「僕は散々に笑われた記憶しかありませんが」
それからも三人でぐだぐだと一年間の思い出を語り合った。百々山の言う通り僕らは人権擁護なんて立派な活動を実施したことなどない。むしろ会長は留置所を進路欄に書き込んでいそうなタイプの人間だ。アナキストというほどではない、せいぜい半グレの不良娘といったレベルである。実際にはもっとおとなしいが、しょうもない理屈を考えるのだけは得意な人間だ。
まあつまるところ"人権擁護会"の名が意味するところは――
「お、やっと肉が来たな」
会長が金網に肉を並べていく。立ち上る煙にむせ返って涙がこぼれた。横槍を入れられて中途半端になった思索を放り出し、僕は目を輝かせながら焼き上がっていく肉のきらめきを見つめている二人を眺める。
僕は会長のことをよく知らないし、百々山のことも同様によく知らない。活動と称して適当に集まり、意味もなく食事をしたり、カラオケに行ったりボーリングに興じたり……他にはあまりレパートリーもないが、そんなくだらない事をして、くだらない事を話し合う。同様に二人も僕のことをどれほど知っているかわからない。
それは透明で柔らかな時間だ。意味などないが、身をあずけると優しく包み込んでくれるような時間だった。それが最後ともなると確かに寂しさも拭えないものがある。会長が卒業すれば、僕と百々山の間でつながっていた何かもきっと無くなるのだろう。氷のように溶けてしまうのだろう。
いつの間にか手元に置かれていたグラスを手に取る。冷やし過ぎなのか手のひらが痛いほどだ。
「おい勝手に飲もうとするんじゃない。普通は会長の乾杯の音頭を待ってからだろう!」
「あ、ああ、すみません」
「もしかして嶺淵さんってお酒とかよく飲むんですか?」
「まあ友達の付き合いとかで。でもビールの苦味って好きじゃないんですよね」
「そうなのか……嶺淵はけっこう不良だな……ていうか乾杯もせずに飲み始めたら協調性を疑われるぞ」
「ちょっと冷え具合を見ただけなんですけど」
僕の言い訳には聞く耳を持たず、会長が半ば椅子を蹴飛ばすようにして立ち上がる。大きな音をたてたことに自分で驚いたらしく軽く振り返ってから、改めて咳払いをして告げた。
「では"人権擁護会"の未来を祝って乾杯しよう」
その時だった。グラスに注がれた液体と、クラゲのいる水槽の水面が不敵に揺れたような気がした。ついで、店内の照明が落ちた。
「ん、停電か? こんな時にしまらないな」
「あ、そういえば」
外はもう日が落ちているから窓の外にも黒い帳が降りている。向かいの店の明かりも入ってこないからここら一帯の電気が落ちているのかもしれない。店主の声は聞こえてこないが、外に確認しに行ったのだろうか? それはそれで無責任な気もするけれど。
ただ僕らのテーブルでは、木炭が発するほのかな灯のおかげで各々の表情くらいまではかろうじて見て取れた。
「ちょっと待ってください。たしかタブで開いたままのはずっスから……あれ?」
「どうした?」
「嶺淵さん、スマホ持ってませんか? いつの間にか電池切れちゃったみたいで」
「構わないけど……あれ?」
「私のもつかない。停電ってスマホの電源も落ちるのか?」
「そんなわけないでしょう。コンセントから電気引いてるんですか」
適当にスマートフォンのボタンを押してもうんともすんとも反応しない。いくら薄暗がりといえど、飽きるほど使っている道具だ。というかもう体の一部みたいなものだ。ボタンの位置くらいは間違えていないはずで……。
「いや、もういいっス。わざわざ見なくても思い出しましたから。ていうか先輩方もニュースとかで見てないんスか? 大規模な太陽フレアのせいで電子機器が使えなくなるっていうあれです」
「太陽フレア?」
「理科の授業をサボってたからよくわからないんですけど、一時的に太陽が活発に活動すると地球にも影響が出るとかそういう話だったはずっス」
「ああ、電磁パルスというやつだな。SF小説とかで読んだかもしれん。電子機器を破壊してインフラを寸断したり、航空機を墜落させたりするってやつだろう。そういえば電車の液晶広告でもそんなことを言ってたかもしれないな」
「じゃあその太陽フレアが収まれば停電も治るってことですか」
「さあ、私にはそこまでは……」
「もう肉が炭化してしまったな」
「今はそんな事――」
不意に甲高い耳鳴りに襲われて僕は反射的に耳を塞いだ。会長と百々山も同様にして顔をしかめている。しかし耳鳴りはどんどんと強まっていって、まるで巨大な何かが一直線に落下してくるような――
すぐに何の音も聞こえなくなった。
◯
「最後だから酒を飲もう」と提案したのは言うまでもなく会長――入出梨子だった。
そんな提案に安直に賛同したことを、今はとても後悔している。
木々の隙間から見える夜空。白い尾をひいた無数の流星が暗黒の天蓋を引き裂いては消えていく。そんな光景にも、人間は五時間も経てば見飽きてしまうことがよくわかった。僕はそれよりも――アスファルトのひび割れに気をつけつつ、今はただ無心で自転車のペダルを漕ぎ続けるのに忙しい。まるでペダルとギアとチェーンの三竦みに取り込まれたみたいに、ひたすらに足を動かす。いや、これは降りて直接押して行ったほうがいいんじゃないか? そう思いつつも、いまペダルから足を離したら一歩も動けなくなる気がした。
それにしても、林道に入ったあたりからずっと道が傾斜になっているのもそうだが、右ハンドルに吊り下げられた重りのせいで上手くバランスが取れずに気を抜くと転倒しそうになるのが厄介だ。僕が傷つくのはまだいいとして、重りの中身が台無しになってしまえば何のために苦労してきたのかわからなくなる。
「ほら頑張れ嶺淵、男だろ!? こんな時しかお前が男である利点なんてないんだからしっかりしろ! しっかりしないと女にするぞ! "人権擁護会"がただの女子会になるぞ!」
「か、会長の分を捨てれば……少し楽になるかなって……思っています……」
「冗談を言う気力はあるんスね……」
まったくもって微笑ましい談笑を道連れにして、蛍光くらげが漂う道を僕らは進む。進み続ける。街はもう遠く彼方だ。蛍光くらげが居なかったらヘッドライトを頼りに暗闇を切り開いて進まなければいけなかっただろう。そういえばかつての"街"というものは光の溢れる空間のことを指していたらしいが、蛍光くらげがもっともっとたくさんいたということだろうか?
彼らに表情はない。基本的には海で暮らす軟体生物の海月と変わりはなく、傘を縮ませたり伸ばしたりしながら、触手を風になびかせて、あてもなく宙を泳いでいる。体内に生息するバクテリアに日光を貯め込むことで夜間には仄かに緑白色に光るのが特徴的だが、目を持たない彼らが自ら発光する意味とは何なのだろうか。
なんてくだらない事を考えていると両足の疲れから意識が遠のいてくれる。そうして自分の意識が空想に呑まれていることに気がついてしまえば、再び全身の倦怠感も取り戻してしまうのだが。
それでもありがたいことに、林道を抜けるのにさしたる時間はかからなかった。両脇を木々に遮られて狭まっていた視界が開ける。風通しが良くなって生臭さの混じった涼しい空気が汗ばんだ体の側を通り過ぎていく。左手側にはまだまだ木々に閉ざされていたが、右手側は遥かな水平線まで見渡せるようになっていた。ここらは断崖の上に位置しているようで、眼下では断崖に打ち付けた波の砕けるさまが蛍光くらげに照らされて浮かび上がっていた。ただくらげたちも空いっぱいに輝く星々の明かりもあって、少しだけその姿がおぼろになっているような気がした。
「やっとついたか。いやおつかれおつかれ。地図で見るのと実際の距離は違うもんだなあ」
会長が自転車を止め、錆びきったガードレール越しに闇色の海を一瞥する。この道を進んでも、あとはもうずっと海沿いの下り坂が続くだけらしい。それがどこへ行き着くのか? それは誰も知らない。案外どこにも行き着かない可能性もあるだろう。それはよくある話だ。
「これが海……」
「そうとも。べつに特別美しいものじゃないが、見て損になるものでもない」
「勝手に街を抜け出てきたんですから、もう僕らに帰る場所はないんですよ。損ばかりじゃないですか。死ぬほど疲れたし」
「あんな街で生き続けることに意味なんてない、そう納得したからこうして出てきたんじゃないのか?」
「それは――」
太陽フレアの長期にわたる異常活性と頻発する自然災害……それらによって数百年以上前に文明の大半を失った人類にとって、残された目的といえばほそぼそと子孫を繋げるくらいしかなくなってしまった。それでも、そんなことでも、今や人類の最後の夢だ。それだけに必死だった。限られた資源と災害の残滓から血筋を絶やさないために人の生活圏は掟と風習で雁字搦め。起床から礼拝、農作業の手伝いと歴史座学。聞き飽きた人類の滅亡史。再確認される"子供である価値"、そして生き残る義務。
全てがうんざりだった。
ぼくらは突発的に、場当たり的に、なし崩し的に、そんな生活を捨てた。ほとんど命を捨てたようなものだ。少なくとも冬になると零下八十度の冷え込みを凌がなきゃいけないが、そんなアテなんてあるはずもない。とにかく気の済むまでほっつき歩いて、まだ電気系統の生きているシェルターを見つけられればあるいは、といったところか。
「酒をあけましょう、会長」
ぼくは自転車を乗り捨てて崖の淵に腰掛ける。わずかに白い線のようなものが水面に走っているのが見える。よく見ればそれは蛍光くらげの群れだった。いつもみたく空中に漂っているのではなく、まさに海面に浮かんでいるのだ。この辺りは街に比べても随分と数が多いような気がしたが、なるほど、やはりくらげはくらげらしく海が故郷なのか。
彼らの中に混ざりたい。
そう思った。
すべてを投げ出した今になっても、随分と多くのしがらみを感じる。残してきた家族。ここまでの旅路。人類の行く末、明日の安全。頼りにならないバカ二人。それともこれから取って返そうかという考え。謝って、謝り倒せばまた元の生活に戻れるのだろうか。もしそうならば、ぼくはどうするべきなのだろうか。バカ二人を諭して、今度こそバカな真似は最後にしようと宣言するべきなのだろうか。
それとも清々しく死ぬまで世界を見つめているべきなのだろうか。
死ぬのはどんな気分だろうか。
街を出れば自由の風がぼくらを飛び立たせてくれるかと思っていたが、人間ってのはそうそうには切り替えができないらしい。それに比べてあのくらげたちの姿は理想的じゃないか。
「赤いのと青いの、どっちがいい」
「無色のやつですよ、僕のは」
「赤は太陽。青は夜への供物か。無色のはただの宴会用だろ。せっかくなら儀礼用のをいだだこうじゃないか。まさに私達は神域の世界に踏み込んだんだからね。大人たちだって恐ろしがってここまでは来ない」
「なんだって同じですよ。人間も神も。僕はあの蛍光くらげたちがいい。人間みたいに余分な知能を持っていないのが羨ましい」
「ふうん。まあ人間は滅びを免れるには愚かすぎるし、滅びを受け入れるには賢すぎるきらいがある。もうちょっとどちらかに偏っていればよかったんだがね」
そういって会長は青の酒の入った瓶をあおろうとした。(みかん)
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