「遺書」

書斎の仙人掌に水をあげてやってください
そろそろ花が咲く時期です

 * * *

 
 八紙垂華生梨の死がこの世に滴り落ちなかったとしたら、幸福はまた異なった形で人々の間に偏在し続けたことだろう。
 けれど八紙垂華生梨は死んだ。
 死因は、溺死。
 仄暗き水の底へ沈みゆく彼女。全身に縛り付けた荒縄、抱え込んだ罪の重さ。
 死を渇望する意志に反して、彼女の若い肉体は生けるための呼吸を求めて喘ぐ。肺へと逆流していく海水、血の味。四肢が無為に痙攣し、残った酸素が吐き出される。彼女を見捨てて空へと昇るあぶく。
 喉が、肺が、万力のような死によって締め付けられ、この苦しみが永劫に続くのだという後悔を対価にして彼女は絶命する。
 死因は、焼死。
 ガソリンスタンドのアルバイトは、この若い少女に疑いを抱くこともなく灯油を売ってやった。彼女はにっこり微笑んで、それを持ち帰る。たっぷりと液体の満載されたポリ容器、そこに自分の死がいっぱいに詰まっているんだと彼女は笑った。
 頭からそれをかぶる。力のない腕では少しばかり大変だった。酷い臭気。やっぱりあのアルバイト君に手伝ってもらえばよかったと思いつつ、マッチを擦る。
 火花。
 瞬く間に全身が青白い焔に包まれる。遅れてやってくる音。音? それは、実のところ彼女自身の悲鳴なのだと理解する間もなく、激痛のむしろに転がり伏す。
 灯油の臭気に肉の焦げる匂いが混じる。長い布地のような意識が激痛と苦悶で寸断され続ける、緩慢に散らばった数多の苦痛の中で彼女は絶命する。
 死因は、失血死。
 それは夢のような光景だった。彼女は愛しきロシア皇女、アナスタシアを自らに夢想する。
 ここはモスクワの大宮殿。麗しきマァルモル(だいりせき)の沐浴場。
 クレートラー(ばら)、セロッソ(さくら)、クリサンテモ(きく)。色とりどりの花弁が水面に踊る。けれどその内のどれも、滴る水に濡れた彼女には敵わない。
 不似合いなセリェブロ(ぎんいろ)。悩ましいブリトバ(かみそり)。そっと手首にあてがう。シォールク(きぬ)の如き滑らかさの手首がベルメリヨン(しゅいろ)をどくりと吐き出した。
 ディプレッシャ(ゆううつ)の妙薬が身体に回り始めて、世界がぼんやりと湯気に溶けていく。彼女は彼女にダスヴィダーニャ(さようなら)を言う。
 極彩色の夢に抱かれて彼女は絶命する。
 その全てが真実とされ、その全てが偽りとされる。
 しかし実のところ、彼女の死因を定める根拠はどこにもなかった。しかし確固たる事実として、彼女は漠然と死神に相対したのでも、その生を誰かに辱められたのでもなかった。
 彼女は自殺した。それだけは偽りなく語られた。死因は偽りを込めて騙られた。
 それが「振り子時計の夜」の最初の鐘の音だった。

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