アドルフ・アイヒマンの部屋

 薄暗い部室は埃っぽくて、朽ちかけのパイプ椅子に腰かけた三人の高校生が携帯ゲーム機のボタンをかちゃかちゃと言わせている雑音で満たされている。これは学生ハッカー集団ではけしてない。何をしているのかといったら、ぼくらは室長の命令でトランセルを育てているところなんだ。
 あ、トランセルってご存知だろうか? ポケットモンスターっていうゲームに出てくるサナギの形をした生命体。ちょっとアンニュイな感じのなんともいえない瞳をしている。で、キャタピーがレベル7になるとトランセルに進化して、さらにレベル10になるとバタフリーに進化する。キャタピーってのは青虫をデフォルメしたようなやつで、バタフリーはモンシロチョウみたいなもんだ。つまり、青虫が成長すると蛹になり、羽化すると蝶になるという自然界でありふれた現象がこのゲームの中では再現されてるってわけ。
 とはいえ所詮は虫けらということか、吠え猛るドラゴンだとか人の悪夢の顕現だとか天地開闢を担った創造神だとかが跳梁跋扈するポケットモンスターというゲームの中において、トランセルの地位は高くない。まずトランセルに与えられた生存のための術は一種類しかなく、これが「狂乱する混沌」みたいな感じであればよかったんだけど、あいにくと彼らが使えるのは「かたくなる」だけだ。これはどういう技なのか律義に説明しておくと、自分の身体構造の硬度を高めて防御力をあげるというすごい技能。僕は「裁きの飛礫」だとか「亜空切断」なんて得体のしれないものよりも「かたくなる」のほうが便利だと思うね。路傍の石に蹴躓いて目と鼻の先に地面が迫ってきても「かたくなる」があれば安心だもの。ただトランセルはサナギなので石につまずいて転ぶことはない。代わりに外敵に襲われたときに硬くなってやり過ごすという設定らしい。でもどんなに硬くなってもゲーム的には最低1ダメージは通るわけで、こちらが攻撃をしないならじわじわと嬲られるだけなんじゃないかとトランセルたちの生存戦略が正しいものか心配になりもする。とはいえ現実のサナギもそんなもんだし、完全無抵抗よりはマシなのかもしれないな。
 こんなようなけっこう愛らしい側面も持っているのだけど、さっきも言ったようにトランセルは、ゲームの中での地位は高くない。そもそもポケットモンスターってのは対戦ゲームの側面も備えているから、なるたけ強い奴が人気になるのが必然なんだ。応援しているチームがドラフトで弱小選手を真っ先に指名したら嫌だろう? できる限り強い選手を取ってほしいだろう? それと同じで、ポケモントレーナー(ポケモン世界で対戦を生業とする連中)はトランセルみたいなポケモンには見向きもしない。第一トランセルはまだ完全に進化しきっていない段階で、使うにしてもその進化先のバタフリーを使うだろうね。ドラフト会議の候補に中学生選手が混じっているようなものだ。おまけにその選手は微妙なカーブしか投げられない、といった具合。おまけに開発サイドもトランセルを矢面に立たせるような奴がいるなんて想定しちゃいないから特別な強化調整が入ることもないもんで、今後のトランセルの活躍も期待できそうにない。それでもトランセルは成長が早いという長所があるんで、今後もゲーム序盤のプレイヤーのお供として使われて、中盤以降に手駒がそろってきたら自然と見放されるぐらいの立ち位置でい続けることだろう。
 さて、ぼくらが風紀委員に目撃されたら三台のゲーム機が没収されるってリスクを背負いながら育てているトランセルというのはそんなような奴だということはわかってくれたと思う。育てるってもバタフリーにしようとしてるんじゃない。正真正銘、最大レベルの100を目指してる。けど成長が早いのはあくまで常識的な範疇でのことで、100まであげようとするのはいかなトランセルといえど面倒な作業なんだ。最高効率で回転させても一匹当たり20分。ぼくの操るトレーナーの最大6匹までの手持ちには、戦闘要員の相棒を除くとトランセルがぎっちり詰め込まれている。そしてポケモンを預けてある倉庫もトランセルでいっぱい。キャタピーもそこそこにいる。ちょっと想像したくない光景ではあるね。そしてバタフリーは一匹もいない。そりゃそうだろう。トランセルのレベルを100にしてしまっているのだから。彼らはゲーム上の仕様としてレベルが9以上の状態でレベルアップを経験すると進化のフラグが立つんだが、ぼくらはそのフラグが入るたびに丁寧にへし折ってまわっている。そうでないと「トランセル」のままレベルを上げ続けることはできないんだ。そんな作業をレベル100まで繰り返すと、おめでとう、天井に達したためにもうレベルが上がることもなく、バタフリーへの進化のフラグも発生しない。彼らは生涯をサナギのまま過ごすことが決まったわけだ。少なくともゲーム的には。そんな奈落にぼくはもう20匹近いトランセルを突き落としている。
 なんでそんなひどいことを、って訴えをぼくらに向けないでほしい。実のところどういう宿業のためにこんな不毛で非道なことをしているのかさっぱりなんだ。初めに言ったとおり、これは全て室長の命令で行わされている。室長の名は入出梨子。現在高校三年生、女性、過激な言動多数、小心者、絶望対策室室長、人間の屑。そして一番の問題としてぼくらにたいして毎度の如く得体のしれない命令を下す。哀れなトランセル達も彼女の号令のために生み出された。ちなみに肝心の梨子は、ぼくの隣でぼくをしのぐ速度で指を動かしている。
「ねえ、梨子」
 ぼくの言葉を待ちかねていたかのように、梨子は素敵な反応速度で顔をあげた。彼女は耳がいいんだ。
「いつまで続けるかって?」
「ああ、ちょっとね、ばかばかしくなってきたんだけど」
「今さら? ひょっとして今まで真面目にやってたの? 勘弁してよライチくん、そんな模範的な態度でどうするのよ」
「なに?」
「いいからゲーム機返して。はいはーいお開きでーす、お疲れさまでしたー。緒川もそれ返して。じゃあそこの紙に腐らせたトランセルの数を書いてね。ああそのボールペン使ってもインク出ないから無駄。捨てといて。ほらこれ使って」
 それで、わけがわからないままにぼくはゲーム機を取り上げられて、雑な切り取り後の目立つルーズリーフが回されてきた。それで20と書き込もうとしたけわけなんだけど、
「ちょっと待って梨子、ちょっと」
「なんでしょうかライチくん」
「ここに書いてあるゼロってなんだ。一匹も育てなかったのかい。あんなに熱心にやってたのに、終わらなかったの?」
「育てるもなにも、だって私、ずっとテトリスやってたから」
「なに?」
 まるで難聴みたいに聞き返してばっかりだ。次から次へと理解に時間の要することを言わないで欲しい。難しいことは小分けでゆっくりと。
「ええと、頭から整理していいかな。君は『トランセルのレベルを100まであげるように』って言ったよね」
「言った」
「それなのに自分はテトリスをやっていたのか」
「なにか問題あるの?」
 もちろんある、と言おうとしたわけだが、それでもってようやく梨子の言いたいことがわかってきた。ちょっと背中が汗ばみそうだ。なんて意地悪い奴。
「緒川、君は何してたんだ」
「ああ、このバージョンやったことなかったからストーリー進めてた」
「トランセルは?」
「最初は育ててたけど、やっぱ弱いから入れ替えたよ。ねえ梨子、もう少しでクリアなんだ。後で続きをやってもいいかな」
「好きにしたら」
「サンキュ」
 まあそんなわけで、ぼくはみっともなくパイプ椅子に座りこんだね。久々に深いため息をつきながら。梨子は嘲笑するでもなく、いつものつまらなそうな顔をこっちにまた向けなおした。
「で、何匹腐らせたの? わお、20匹だって。とんでもないアドルフ・アイヒマンだな」
「じゃなんだってあんなわけわかんないことを言ったんです?」
「支離滅裂な発言をするのに理路整然とした理由なんてあるものか。支離滅裂な気分で支離滅裂に言ってみただけ」
「でもゲーム機はちゃんと用意してるんだからそれこそ支離滅裂だ……」
「まあぶっちゃけて言うと、君らがどんな反応をするか見たかっただけなんだけど」

・・・・・・以下愚痴が続く、書く気にならない

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