noteの意外な効能 | 言語化とはあやふやな思考にしっかりとした形を与えること
こんにちは。すっかり寒くなりました。
木曜日は1週間ぶりの出勤だったんですが、隣のデスクのおじさんが風邪でした。すごくキツそうでした。
いつもは朝からくだらない冗談を飛ばす彼ですが、その日はそうはいきません。
出勤したての彼のマスク姿に「おはようございます」と同時に「風邪ですか?」と答えありきの質問を投げかけます。笑
すると彼は「・・・風邪ひいちゃったよ」と呟きます。
・・・休めばいいのに。
はじめに
本題に移ります。笑
以前 noteの冒頭で『noteを書くことが内省に繋がる』と幾度となく書いた記憶があります。その当時、ネタを考える時の効能のみに気をとられていたんですが、始めて2ヶ月経つと何となく感じるモノが変わってきた気がします。
というのも、先日それとなく自分の過去のnoteを読み返したところ、当時の考え(と言っても最長2ヶ月前)が鮮明に蘇るという不思議な感覚に包まれました。
恐らく私の記憶力がニワトリレベルだからだと思います。笑
そこでこのnoteでは、noteを書くことによる意外な効能について、私が感じた視点からご紹介させてください。
あやふやな思考が整理・可視化
彼此20年前の話です。高校の現代社会Bという倫理の授業で先生からこんな主旨の話をされたことを覚えています。
『言語化』とはあやふやな思考に、
しっかりとした形を与えること
『言いたい事はあるのに上手く言葉で表現できない』ことってはよくありませんか?
私の場合、20代くらいまで『言ってる事がよくわからない』という指摘を定期的に受けてた気がします。笑
上手く言語化出来ない状態は、もしかしたら思考がきちんと整理されていないからなのかもしれません。何となくそう思うようになりました。
noteの場合、日々感じた違和感やアイデアを何とか言語化しようとします。頭に浮かんだ雲のような考えを、あの手この手で文書として表現しようとしますよね。そのプロセスの中で、散らかった思考が再整理されていってる気がします。
《まとめ》
浮かんでは消えてゆく思考を見える化できる
適度なプレッシャーが文章の完成度を向上
当初、noteを公開することに大きな抵抗感を感じてました。そもそも『興味持ってくれる人なんてこの世にいるのか』という半信半疑の心持ちのまま、公開ボタンを押した覚えがあります。
noteは他人に見られることを前提に書きますので、文章の『てにをは』は勿論、内容を理解するに足る付帯情報が文章として散りばめられることになります。
心に移りゆく由無し事を1つのお話として無理矢理にでもまとめる事を私は心がけています。
思考の記録を付けるという点では、似たモノとして日記があります。が、個人的には日記とnoteは似て非なるモノと捉えています。まぁ当たり前だと言われそうですが。笑
日記は気が向いたら書くこともありましたが、いかんせんヒトに見せる前提ではないのです。それが原因なのか、私の場合書いてある内容がグチャグチャです。
後で読み返しても正直何が書いてあるのかよく理解できません。勿論書いたのは私自身なのですが。笑
《まとめ》
公開するプレッシャーが文章に現れる
自分のnoteを振り返る、想定外の面白み
ここまで述べたように、noteを習慣化する事で以下の2点が達成されることとなるかと思います。
・自分の思考を言語化する
・読まれる事を前提に整理してまとめる
noteの場合、自分の思考を“いつでもどこでも手軽に”振り返る事ができます。私のような記憶力が悪い人間にとって非常に有難い事です。
すでにコレクションのような愛着も生まれつつあります。
毎日noteの場合、短期間でもかなりの数になりますので、数年経った後に読み返しても一味違った感覚に浸れるかもしれません。
《まとめ》
noteはいつでも掘り出せるタイムカプセル的存在
さいごに
再度まとめです。
noteの意外な効能
・浮かんでは消えてゆく思考を見える化できる
・公開するプレッシャーが文章に現れる
・noteはいつでも掘り出せるタイムカプセル的存在
元を辿るとnoteには半年前に始めた不動産投資について記録する予定でした。不動産はというと、からっきしで何一つ書けることはございません。笑 まぁnoteとはご縁があったということでしょうか。それではまた。
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