平等な社会は落ちこぼれを生む

平等な世界があったらそこに住みたいか。
私の答えは「No」です。
なぜなら人はひとりひとりちがっていて、同じであることはありえないので、完全に平等になることは不可能だからです。
前沢さんの納税のことで「不平等である」という声を聞いたり、彼自身が世界平和と平等な社会を目指しているということから、ふと思いにふけってしまいました。

平等な社会の縮図が初等学校教育であり、どんな背景を持つ子供も同じように扱われ、協調と協力による集団生活を過ごしてきたかと思います。それでも多くの人が学校生活を窮屈に感じたり、なじめずに不登校になってしまったりしています。私自身、学校では楽しく遊んでいたし、そこでの友達は今でも続いている人も何人かいます。それでも学校自体にはなじめていたとは思えないし、私は学校生活からは落ちこぼれにあたると思っています。落ちこぼれという言葉は通常学力の低い人を指す言葉としてよく使われます。私はお勉強はできる子だったので、落ちこぼれという言葉の一般的な意味には該当しません。それでも、あえて自分を表現するには落ちこぼれという言葉が適切だと思えるのです。

私は何につけてもどんくさくてとろい子でした。何もない所で転ぶし、雨が降ったら必ず水たまりにはまっていました。授業の終わるころみんなは先生が終了を告げると同時に遊びに走り出していたのに、私は終了を告げられてからやっと片づけをはじめ、私が片付け終わるころにはみんなはもうとっくにいなくなっている頃でした。授業時間はいつからいつまで、休憩時間はいつからいつまでと決められた中で、私はうまくそれに合わせて行動することができず、休憩時間中にトイレに行くことができなかったり、次の授業の準備が終わらなかったりしていました。その中でも特に私が苦手としたのが給食でした。私は親譲りの胃腸の弱さであまり多くを食べることができなかったし消化の悪いものを食べるとよく消化できずに戻してしまっていました。ですが、学校教育ではどの子も平等に扱われるため、私の分だけ量を減らしてほしいという要望は聞いてもらえませんでした。気持ち悪くて吐いてしまうと先生からは「なんと贅沢な子だ。外国では食べられない子もいるのに」と言われ吐いたものも食べるように言われました。私は給食の時間が終わり、お昼休みが終わり、掃除の時間になってもまだ給食を食べていました。連帯責任の名のもとに私と同じ班の子は私が食べ終わるまでつきあわされました。私と同じ班になるとお昼休みに遊べなくなるので、みんなは私と同じ班になるのをいやがるようになりました。

人は生まれながらにして不平等であり、能力には差があります。私はできることとできないことの差が激しく、勉強は人よりめちゃくちゃできた代わりに、食べる能力はめちゃくちゃ低かったです。平等な社会は、平均的あるいは平均少し下あたりの能力を持つ人にはよいのかもしれません。ですが私のように何かにおいて人より格段に劣っている部分を持つ人には息苦しいものです。自分の得意な部分にはあまり目がいかず、苦手な部分ばかりに向き合っていかされたような気がします。大学以降の自由な社会に出てはじめて私は息ができるようになりました。苦手なことを自分の工夫で補えるようになったのです。人より食べるのに時間がかかるなら、その分多くの時間をお昼時間にあてればよい、学校生活では許されなかったそういうことをできるようになって初めて私は自分自身のコンプレックスから解放されました。

「平等な社会」というのがひとりひとりに同じものが与えられる社会を指すのであれば、それは本当の意味で平等であるとは言えません。なぜなら人の消化能力は同じではないので、等しい量と質のものが与えられた場合に、少なくて不満に思う人もいれば、多すぎて消化不良を起こしてしまう人もいます。選択権の平等が与えられたのであれば、多くを消化できる人が多くを取り、あまり消化できない人は少しを取ったり、自分の得意な部分を取ったりすることができます。平等という言葉が人の個性を無視し画一的な扱いに走りやすいために、かえって落ちこぼれを生み、格差を助長させるように思えますね。

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