限りないもの
創り手の心情を掻き立てるに際限無いものがある。
大正、関東大震災により首都は未曾有の危機に襲われた。
それにより人々は混乱と慟哭にまみれながらに生きるを抜く。
それは皮肉にも文化人や芸術家を生むに、この上無くの悲観であったのかもしれない。
徒然なるものたちは拠り所を造り出している真っ只中にあった。のちに彼らは鎌倉文士、対には浦和画家と呼ばれるようになる。さて、
ときは現代。
頭を飾るのは、わたしの友人にある。
彼女は、わたしにこう言う。
最近、画家のモデルをしているの。
(君、この前は写真家のモデルをしていたよな)
なんとも、手に負えない女だが、必然とそこがいい。
そして彼女と幸運にも出会えた画家が彼、浦和画家のひとりである洋画家の小松崎徹郎氏。
http://tetsuo-komatsuzaki.jp/gallery
今回、はじめて彼のギャラリーを拝見するが、違和感とも自然とも言い難い情が生まれた。
並びを追う。
面白いと率直に湧いた。
彼のそれは、多岐にわたる芸術とでもいえばいいのだろうか。語彙の無力。
商業的にはアンディウォーホルを、光と影にはレンブラントをちらつかせる。しかし、そうではなく。
無性なるものが湧く。
随分と古い記憶、わたしは似た絵を見ていた。
わたしの祖父は日本画家だったという。その経緯からか、周囲には訳のわからない絵が溢れていた。
その中のひとつに、艶やかなる舞妓の絵が一枚あったことを海馬の底は云う。その絵を描いた画家は、小松崎邦雄氏。小松崎徹郎氏の父だ。
小松崎邦雄氏の描く世界は緻密だった。幼心に真実を知るような異質を覚えた。それは、わたしが生まれて初めてシュルレアリスムの世界を知った絵だったように思い出す。
そして、今回小松崎徹郎氏の絵からはバランスを知る。
人間の、生命の軸ともいうバランスだ。
わたしは絵の世界を知らない、しかし恐らくに今日まで多くを知らされてきた。
静かな熱が手中から立ち昇る。
そして限りないものたち。
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