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〈無料版〉陰陽道閑話~陰陽道は何処から来て、何処へ行ったのか【第6回】

令和の安倍晴明と「晴明説話」ー求められる”新しい陰陽師像”

通常の「閑話」シリーズ、すごく久々な件

 前回まで書いていた特別篇「安倍晴明」シリーズ、足掛け3年もかけて書いていた事に驚いております。
 ようやく正規の「陰陽道閑話」シリーズに戻って第6回となります。よく考えてみれば「安倍晴明」シリーズも個々に回数としてカウントすればよかったなぁ・・・。

今回の題材は「令和の晴明説話」-大河ドラマと映画から

 さて。今回は、今年(2024年)に再度やって来ている「安倍晴明」、広くいえば「陰陽道/陰陽師」への注目について、その発信元となっている大河ドラマ「光る君へ」と、映画「陰陽師0」で描かれる”安倍晴明像”から考えてみたいと思います。


大河ドラマ「光る君へ」の安倍晴明像

大河ドラマ「光る君へ」の安倍晴明①ー神秘性なきリアリティ

 2024年になって再び安倍晴明が話題となる、その嚆矢となったのは本年度大河ドラマ「光る君へ」に登場した事でした。当初、配役が発表された時は驚きました。ユースケ・サンタマリアさんと聞いて、正直「やっぱり晴明像は小綺麗な姿というところか」というのが最初の感想でした。

【NHK大河ドラマ「光る君へ」】

https://www.nhk.jp/p/hikarukimie/ts/1YM111N6KW/

 ただ、この時点で”ひとつの画期”だと思ったのが、名前の読み。これまでは「あべのせいめい」という呼称が一般的でしたが、今回「あべのはるあきら」となっていた事です。末席ながら陰陽道研究という分野に身を置いている者からすれば、「はあきら」ではなく「はあきら」として欲しかった所ですが・・・まぁ、それは致し方ありません。
 そして。ドラマ登場時の姿が公開された時に、「従来の晴明像」でいくのかなという思いは吹っ飛びました。老けメイク、けだるそうな姿・・・しかしながら、その三白眼が迫真性を帯びている。

大河ドラマ「光る君へ」の安倍晴明(ユースケ・サンタマリア) ©2024 NHK

 これまでの「イケメン」「小綺麗」「神秘的」というイメージを、可能な限り排除したであろう、リアリティー溢れる姿を見せてくれています。ユースケさんの怪演も光っています。 視聴者に、その姿を焼き付ける事が出来たのは、第1回の冒頭が主人公である紫式部(作中では”まひろ”)に関するシーンからではなく、安倍晴明が天文観測をするシーンから始まった事でしょう。天を仰いでこれからやって来る時代の兆しを星の動きから読み解いている晴明の姿は、天文博士を務める彼の現実的な仕事姿を見せると同時に、それ故に見えてくるミステリアスな姿(これまでの晴明像とは異なるミステリアス)が際立ち、視聴者の関心を集める結果となりました。

大河ドラマ「光る君へ」の安倍晴明②-技術官僚としての姿

 さて、ストーリーの中での晴明はどう動いているか。非常に公務員的といいますか、ある意味”陰陽師らしい”活動に終始しています。
 ・・・もちろん、そこはドラマですから、ある程度の「神秘性」を持たせている所はありますが、その「神秘性」も、得体の知れぬ神秘性ではなく、”陰陽師ゆえの勘の鋭さ”という描き方で表現しているので、超能力的ではありません。
 そして、回を重ねる中で見えてきたのは、晴明が登場する時は必ず”事件の前兆”といえる時。今の段階では政変、疫病の際に晴明が良く登場します。思えば、陰陽師と呼ばれる者たちの仕事は「天からのメッセージを読み解く」というのが本来の姿。天を仰ぎ見てこれからやって来る”何か”の兆しを呟く姿は陰陽師らしいといえるでしょう。

権力者のもと、ウラで暗躍する陰陽師としての晴明。傍らには従者 須麻留(daiki) ©2024 NHK

 ユーザーである貴族とのやりとりも非常に現実的(あり得そうなやりとり、と言うべきか)。平安貴族社会の成員ともいえる貴族達が「怪異」や「祟」「ケガレ(穢)」と如何に付き合い、どう受け取っていたか。対して陰陽師(晴明)がそれにどう応じる傾向にあったかを、リアリティのある描き方をしています。脚本の巧妙さも生きております。
 特に今回の晴明で印象的なのは、何事も「事務的」で情報処理に長けているという所。ユーザー側(貴族ら)が恐々としながら晴明に話すのですが、晴明はため息をついたり、「やれやれ」と言わんばかりに頭を左右に振ったり。そういう仕草は様々な”情報”に通じているからこそ出来る事でしょう。
 井深 新さん演じる中関白 藤原道隆が病気で倒れた際も、道隆は「呪詛ではないか」と晴明に問いますが、晴明は「寿命です」とキッパリ。その場で得られる情報を素早く処理して頭をフルスピードで回転させ、いかようにでも言えるはずの「陰陽師からの発言」も、”うわべの言葉”ではなく事実を冷淡に述べたのでした。
 逆に藤原兼家(演:段田安則さん)が円融天皇(演:坂東巳之助さん)を退位に踏み切らせる際に仮病を用いた時はどことなく大袈裟かつ不自然な動きを晴明は見せていました。晴明の情報処理能力と応用力を兼家が利用したのでしょう。そして極めつけは晴明が兼家に「私の策をお買いになられますか」と情報を売る。

 本作の安倍晴明はどこか冷めていて、戸惑う貴族を前にしても動ずることなく対峙します。むしろ「達観者」あるいは「情報屋」として冷静かつ冷徹に起きている物事を分析し、時にはその情報で貴族を動かし、時には厳しく断言して現実を突きつける。そして辞去してから「さて、この状況でどう動くであろうか」と事の推移を見守ります。実に「策士」ですな。

ドラマでは当時の貴族らがよく行わせていた陰陽道の祭も”政治的演出”に? ©2024 NHK

 「光る君へ」における安倍晴明は、陰陽師としての仕事をしている・・・つまり「不可思議な存在」「超能力者然とした存在」という、これまでに想像されがちであった”安倍晴明像”から一皮むけた、現実的・常識的で非常に事務的な(プラスアルファで専門的知識、スパイスとして人智及ばないと思しきチカラ)姿を見せています。「超能力者」「ゴーストバスター」といったイメージが先行した「平成の晴明像」とは異なり、徹底的な「陰陽道従事者」としての晴明像。情報収集と処理能力に長け、何事も客観的で冷淡な性格。これが「令和の晴明像」の一面なのでしょう。

陰陽師が占いに使用する「式盤」と算木を使う様子も ©2024 NHK

大河ドラマの「安倍晴明」への期待ーもっと貴族たちと絡んで

 近年の大河ドラマは、有名作家さんの原作の有無関係なく、考証班が懸命に当時の時代背景を追求してリアリティを求めていく傾向にあります。過去名作と呼ばれた多くの大河ドラマのような「フィクション性の方が高い」作品も、それはそれで非常に面白いのですが、近年のリアリティーを追求する方向性も、今度は「歴史を知る/興味を持つ」のキッカケを作ってくれる入門的役割を果たしてくれている事には、歴史学を学んだ身としては非常にありがたく、「歴史に興味を持ちたければ大河ドラマを見ろ(その上で、史実を調べて相違点を見つけるだけでも面白いぞ)」と言える所は、カルチャーセンターなどで講師をさせてもらう時に言えるので便利です(ちゃっかり)。
 ただ、「要望」もあります。末端ながら陰陽道史研究に身を置き、ましてやちょうど平安中期貴族社会期の陰陽師を専門とする当方としては、「もうちょっと貴族は怪異・祟・ケガレには神経質で、思った以上に畏怖していたのではないか」と思います。今作ではそうした変事を権力掌握や、政敵の弱みを握る方法として使用されがちな傾向が強いような気がしますが、陰陽道はもうちょっと貴族社会の生活の中では身近にありました。

晴明は天文道の人間なので天文図は必須。あわせて横には式盤が置かれている。 ©2024 NHK


 ロバート 秋山竜次さん演じる藤原実資の日記『小右記』は膨大な年月に渡って記録されている、平安時代中期摂関期の実情を知る上で第一級の史料ですが、その中には膨大に陰陽師が登場します。そこで交わされる会話を見ると、実資は怪異・祟・ケガレを非常に敏感に気にする性格であった事が窺われます(あくまで私の見解ですが)。これについては彼のキャリア・・・つまり、長く天皇の最側近たる蔵人頭として仕えていたからこそ、自身およびその周辺で起きた変事が朝廷(内裏)、ひいては天皇に及ぶと国家の一大事になりますから、蔵人頭を離任して議政官として廟堂の一員となってからも、その傾向は強く見受けられます。
 ところが興味深いのは、さすが「賢人」と賞されただけあって知識に長けている事。番外編「安倍晴明」シリーズでも触れましたが、変事が起きた際にはもちろん陰陽師を呼びますが、回答を得た際に「おや?」と思うと実資は典籍や知識を持ち出して陰陽師に再確認する事が散見されます。そして時にその質問に陰陽師が答えられず、実資は「とりあえず陰陽師の回答は受け取っておくが、精査の必要があるな」と感じたと思しき時には、別の陰陽師を呼びだしたり、占星術をマスターしている密教僧「宿曜僧(宿曜師)」を呼び出して同じ内容を占わせたり、意見聴取をしています。
 
また藤原行成(演:渡辺大知)の『権記』では当時”従四位下”となっていた晴明を「安四位」と呼んでいた事がわかる記録もあります。 
 今回の大河では実資や行成、その他貴族と晴明との絡みがないのですが、出来れば今後は「陰陽師と貴族との多様な関り」、あるいは晴明以外の陰陽師や、宿曜僧もストーリーに入れていただければ嬉しいですね。見ていて、陰陽師が関わるすべての出来事を安倍晴明に集約し過ぎている感が強く、平安中期陰陽道の多様性(多様というか、現在の我々が思い描きがちな陰陽道像のように充分に内容が固まり切っていない様子)が最小限しか出しきれていない・・・これについては「そもそも主人公は紫式部(と藤原道長)なんだからしょーがねーじゃん」と言われれば、何も言えないのですが・・・。

 賀茂光栄、あるいは惟宗文高、中原恒盛などの「キャラが立っている陰陽師」が姿を見せてくれると嬉しいですね。

 晴明さんも寛弘二年(1005)になくなるので、ドラマの進行上ではまもなく退場となると思うので・・・。

若くして権力者となった藤原道長(柄本 祐)の話を聞きながら作業的に反閇を踏む晴明 
©2024 NHK

映画「陰陽師0」の安倍晴明像

 2024年4月19日に映画「陰陽師0」が公開されました。原作はおなじみ、夢枕 獏氏。監督と脚本は佐藤嗣麻子さんが担当。陰陽師の使う諸術を考証する役目については今回は「陰陽道指導」ではなく「呪術考証」として作家であり、呪術に造詣の深い加門七海氏。時代考証として繁田信一氏が入っておられたのは、個人的にビックリしました。

【映画「陰陽師0」】

https://wwws.warnerbros.co.jp/onmyoji0/index.html
 

 キャストは、若き日の安倍晴明を山崎賢人さん。同じく若き日の源博雅を染谷将太さん。陰陽寮のメンバーでは、陰陽頭 藤原義輔を小林 薫さん、晴明の師である陰陽博士 賀茂忠行を國村 準さん、天文博士 惟宗是邦を北村一樹さん、暦博士 葛木茂経を嶋田久作さん(ま、魔人加藤!)。他に得業生 橘 泰家を村上虹郎さん、年増の陰陽生 平群貞文を安藤政信さんが演じます。ストーリーのカギを握る人物としては元斎宮 徽子を奈緒さん、帝(村上天皇)を板垣李光人さんが演じます。


 夢枕 獏氏の「陰陽師」シリーズは、荒俣 宏氏の「帝都物語」と並んで、
現代に「陰陽師」「安倍晴明」「土御門家」といったワードを拡散せしめた作品と言って良いでしょう(萩野 真氏『孔雀王』や岩崎陽子氏の『王都妖奇譚』など多々ありますが)。さらに岡野玲子氏が漫画化した上に、そのシリーズは夢枕「陰陽師」の世界からも超越した「岡野玲子解釈版 夢枕『陰陽師』」という、また新しいジャンルを生み出しています。

「0」の前に”おさらい”-平成版「陰陽師」

平成版 映画「陰陽師」シリーズ。右から安倍晴明(野村萬斎)、源 博雅(伊藤英明)、
晴明の式神・蜜虫(今井絵理子) ©2001 映画「陰陽師」制作委員会

  ところで・・・。「陰陽師」「安倍晴明」と言うと皆さんは何を思い出すでしょうか。色々と思い起こすでしょうが、その中には”必ず”狂言師 野村萬斎さんの姿がある筈です。「安倍晴明=野村萬斎」という構図が、脳裏のどこかにあると思うのです。 
 今を遡る事、23年前。21世紀を迎えて間もない時に「陰陽師」は映画化されました。
 監督は後に「おくりびと」でカンヌ国際映画賞を受賞する滝田洋二郎さん。キャストは、安倍晴明を狂言師・野村萬斎さん。源 博雅を伊藤英明さんが演じ、晴明が使役する式神「蜜虫」は今や国会議員の大先生となっている今井絵理子さんが演じられ、晴明・博雅・蜜虫がセットでレギュラーメンバーとなっていました(厳密に言うと、一番最初に夢枕「陰陽師」が映像化されたのは2001年4月~6月にかけてNHKドラマ Dモードで、晴明役を当時SMAPであった稲垣吾郎さん、博雅を杉本哲太さん、蜜虫を本上まなみさんが演じられ、ヒット。映画版の公開は10月)。

 まぁ、この時のブームはもはや「ブーム」というよりかは「狂騒」。右も左も「陰陽師」、上を見ても下を見ても「安倍晴明」。21世紀の始まり、そして世界的にも国内的にも未曽有の危機を迎えていた時代に映画「陰陽師」は大狂乱をもたらしました。  

 この時は2作品制作され、初作の「陰陽師」ではヴィラン役である陰陽頭 道尊を真田広之さん、権力に固執するあまり道尊の術中にはまってしまう右大臣 藤原元方を柄本 明さん。右大臣元方の娘で帝の寵愛を受けていた佑姫を夏川結衣さん、帝は岸部一徳さん(サリー)。ストーリーのカギを握る、不老不死の女・青音を小泉今日子、同じくキーマンである早良親王を萩原聖人さん、と豪華なラインナップでした。
 見せ場は野村萬斎演じる晴明もさることながら、ヴィランである陰陽頭 道尊の「圧」。真田広之さんのオーラ全開、怨念の権化を素晴らしい演技で表現しています。晴明と殺陣を繰り広げますが、真田広之さんもJAC(ジャパン・アクション・クラブ)出身ですから、千葉真一門下で「着物での立ち回り」は言う事なし。見事の一言に尽きます。まぁ、これが実に「大当り」。なんと総興行収入は30億円超というビッグタイトル(当時)となりました。

強烈な印象を残したヴィラン 陰陽頭 道尊(真田広之) ©2001 映画「陰陽師」制作委員会

 次いで2003年、続編である「陰陽師Ⅱ」が公開。今回は出雲(出雲族)がモチーフとなり、ヴィラン役である元”出雲族の王” 幻角を中井貴一さん、ストーリーのカギを握る右大臣 藤原安麻呂の娘・日美子を深田恭子さん、幻角の傍にいて琵琶を得意とする謎の青年・須佐を市原隼人さんが演じました。 
 脇を固めたのは日美子の”父”である右大臣 藤原安麻呂を伊武雅刀さん、藤原氏を敵視する貴族・平 為成を鈴木ヒロミツさん、同じく藤原氏を嫌う貴族・三善行憲に山田辰夫さん。帝は蛍 雪次郎さん、登場する貴族の中で唯一実在する、左大臣 藤原兼通(兼通が出ていたのか!)を斎藤 歩さんが演じられています。
 出雲と大和という、古代日本を知る上で重要な二つの王権(権力体)の盛衰の裏にあった「悲しき運命」を晴明と博雅が解明していき、最後は晴明が・・・という、題材としては非常に興味深いものだったのですが(殊に「三種の神器」である草薙剣=天叢雲剣はヤマタノオロチの尾から出た霊剣、つまり出雲国の大宝である筈のモノが何故「ヤマトの大王」である天皇の地位と権威を示すレガリアでになっているのか、という点は非常に興味深い指摘だった)・・・。
 ちょうど折悪く、ほぼ同時期に大ヒットしていた「踊る大捜査線」の劇場版「踊る大捜査線 the movie 2 レインボーブリッジを封鎖せよ」がかち合ってしまいました。あわせて、前作に比べて内容が”やや難解”な所もあり、軍配は「踊る大捜査線」のほうに上がってしまいました(「踊る大捜査線」は興行収入173.5億!)。平成版映画「陰陽師」はここで終わりました。

続編となった映画「陰陽師Ⅱ」 ©2003 映画「陰陽師Ⅱ」製作委員会

 しかし、2作品だけではありましたが野村萬斎さんの安倍晴明像は今もなお「安倍晴明」のイメージとして、そして史実の安倍晴明をイメージする際にも想起されるほど強いイメージを残しました。
 伊藤英明さんの源博雅も「正義感強い青年貴族だが、どこか不器用(あと惚れっぽい)」というキャラクターが似合っていました。いまでは重厚なキャラクターを良く演じる伊藤英明さんの初々しい姿が見られる作品ですね。

伊藤英明演じる源 博雅。最初は晴明を警戒していたが、次第に打ち解けていき「親友」に。
©2001 映画「陰陽師」製作委員会

 安倍晴明=野村萬斎というイメージはもう四半世紀経とうかという現在でも定着していますね。それだけ「ハマり役」でしたし、さすがは狂言師ですから、着物での所作や動きはお手の物。そして動き方や「見せ方」もプロ。なによりも、所作と共に映えたのは舞踊と謡のように唱える呪文。まぁ、多くの言葉を必要としない「美声」。今から考えても「晴明=野村萬斎」という強烈な印象付けは、野村萬斎氏のもつ魅力が晴明(少なくとも夢枕『陰陽師』の晴明像)のミステリアスな魅力とピッタリ当てはまったからでしょう。

いまもなお、そのイメージに強い影響を与えている野村萬斎の安倍晴明
©2001 映画「陰陽師」製作委員会

コンビになる前の2人ー”学生晴明”と”坊ちゃん博雅”

 映画『陰陽師0』。今回の時代設定は、いわゆる通常の『陰陽師』シリーズの”晴明と博雅”がコンビとなる前の話です。青年時代の晴明と、おなじく青年時代(前作の映画における博雅は”青年”でも成熟していたが、『0』の博雅はさらに若い)の博雅が、従姉妹である徽子女王(映画では「よしこ」。歴史的には「きし」とも呼ぶ)のもとで起こる怪異と、陰陽寮内で起きる殺人事件・・・その背後に潜む陰謀を機に出会います。
 晴明については、これは野暮な話にはなりますが、史実では40代で未だ学生で、本格的活動はそれ以降という事になりますが、今回は21歳の若々しい陰陽寮学生。博雅は中務大輔(なかつかさだいぶ/ーだいゆう)という、陰陽寮も管下としている中務省の次官を務めている、という設定となっています。ここで「晴明と出会う可能性」を既に整えている感じ?です。最初の出会いの場所となったのは広沢の遍照寺でした。
 晴明の方はある”過去のトラウマ”があり、その真相を想念します。しかしうまく行かず。遍照寺の住持である寛朝僧正から厳しい一言を受けてしまいます。

 一方で博雅は何かがあって遍照寺に来ていたようで、冠には花が。貴族が冠に花をつけている時は大体遊びに来ている事が多いので、管弦の名手である博雅は風光明媚な遍照寺に、参拝方々遊山に来ていたのでしょうかね。そこで出会いました。 詳細は省きますが、廊下で公達と遍照寺の僧が立ち話をしている所に晴明がバッタリ出くわし、「晴明がキツネの子らしい」という話から、試されてしまいます。そこに話題の晴明が来たので、公達は晴明をからかい、晴明も不機嫌の極み。しかし、しつこく絡まれたので「ある事」をします。驚く公達と僧。そして遠目にそれを見た博雅。なぜか博雅は晴明に興味を持ちます。それが話のはじまり。

本作における「陰陽道」とは ー ”ワザ”の一面をリアルに描写

 まず本作における「陰陽道」の概念は特徴的です。夢枕『陰陽師』シリーズにおいて、陰陽道の”核”ともいうべき観念(概念)が「呪(しゅ)」です。簡単に言えば、この世のあらゆるものは「名」や「意義」を付けられて機能している・・・その仕組みを「呪」という言葉に凝縮しているのでしょう。平成版の映画「陰陽師」では「ヒトやモノを縛るもの」と端的に表現し、「この世で一番短い”呪”は名前である」と晴明は博雅に話しています(博雅は「さっぱり解らん」とこぼす)。

 ちなみに、念のために言っておきます。実際の陰陽道には、夢枕「陰陽師」シリーズにおいてその核となっている「呪」という概念はありません。

(厳密に言えば、歴史的には典薬寮にあった「呪禁(道教や方技仙術による医療行為)」を司っていた者たちが陰陽寮へと合流したと言われるので、『陰陽師』シリーズの「呪」の概念は必要ない。そもそも陰陽道自体が呪術かどうかも・・・おっと失礼)

 あくまでも「呪」の概念は夢枕『陰陽師』における陰陽道の概念を簡単に示しているものですので、その点を御理解されたし。

陰陽頭と各道の博士たち ©2024映画「陰陽師0」制作委員会

 ところが「0」では「人の意識を操って肉体(現実)に影響を及ぼす方法」と、実にあっけなく”タネあかし”をします。映画中では陰陽頭 藤原義輔みずから教鞭をとって学生を教えるのですが、そのなかで陰陽頭はこう言います。

「呪というものは肉体や物質に直接作用するものではない。意識に作用を及ぼし、それが肉体に影響を与える」

映画『陰陽師0』より、陰陽頭 藤原義輔

 そういって、陰陽頭義輔は学生の一人である丈部兼茂(はせつかべの かねしげ)に、火桶から取り出した”真っ赤な棒”を取り出します。兼茂はそれを焼け火箸と認識し恐怖におののく中で、陰陽頭義輔は躊躇なく腕に押し付けます。恐怖と熱さで絶叫する兼茂。しかし、そこで陰陽頭は「良く見ろ」と声をかけます。すると手に持たれているのは”木の棒(枝)”。続けて陰陽頭義輔は言います。

「兼茂はこれを火箸と思い込み、肉体に変化を起こした。これを暗示、または催眠術ともいう。実際は無毒でも、毒蛇にかまれたと思い込んだ男が、死ぬことはよく知られている。一流の陰陽師は、この呪を使いこなす」

映画『陰陽師0』より、陰陽頭 藤原義輔

 まぁ、今でいう所の「マジック」「トリック」・・・もっと平たく言うと、「実際はそうでなくても”なんだかそうなってしまった感じ”がする」と思わせる事。それが「呪」だと断言してしまうのです。
 原作原理主義者の方や、陰陽師に”不思議な存在”という印象を置いておきたいという方には拍子抜けだったかもしれませんが(それか、一転してある意味”腑に落ちた”方もいるか?)、「思い込み」という人間が無意識的かつよく起こしがちなミス(あるいは一種の”判断能力”とも言えるか?)を使うのが「呪」であり、これが陰陽道である・・・というのが、映画『陰陽師0』の世界下における「陰陽道」のようです。

若き日の安倍晴明 ©2024映画「陰陽師0」制作委員会

 なお・・・天文道や暦道はどうなるのかなぁと思いましたが、それは置いておきましょう(^^;)

映画「陰陽師0」の安倍晴明①ー悩ましき青年・晴明

 これはあくまでも個人的な見方になるのですが、作中における安倍晴明は”ジレンマ”(トラウマ)を抱えている・・・そして矛盾を抱えざるを得ない、という状況をどうにかして克服させていこうと模索する姿に見えました。
 というのは、作中の青年・晴明は非常に冷めています。博雅と初めて会話した際には「屋鳴りは木材の乾燥で起きるものだ」とバッサリ。広沢 遍照寺で博雅がみたカエルの一件も「トリック」だとあかし、言葉と効果と寺という場所の特性(香が焚かれ、読経の声が聞こえる等)を利用して、公達どもに”思い込ませた”と白状します。ついでにお手玉状のモノを「ネズミだ」と博雅に投げつけ、博雅は見事に引っかかってしまいます。

若き日の源 博雅(染谷将太) ©2024映画「陰陽師0」制作委員会

 ・・・と、こうして晴明は博雅に陰陽道というのは人間の心理を利用したものに過ぎないぞ、と説明します。そしてそれを非常につまらなそうに言うのです。晴明は「ウソをウソと見抜けないヤツらばっかりでつまらん」と、陰陽道に限らず世の中が”こけおどし”であるという事に「諦め」と「つまらなさ」を抱いているかのような姿を見せます。
 
また、晴明は「(陰陽道に)興味がない」とも言っており、つまらないけどもそこに身を置いている(それには晴明なりの理由があるのだが)・・・ジレンマを抱えた悩ましき青年晴明の姿が描かれます。

映画「陰陽師0」の安倍晴明②ー運命を悟り冷徹に受け入れる

 映画の内容・詳細はここでは多くを語りませんが、博雅が晴明に徽子女王のもとで起きた異変について相談をする所に始まるのですが、それはほんの端緒でしかなかったのです。果たして真相は”最も帝に近い陰陽師”となるべく邪魔な存在・・・つまり晴明を消す為に陰陽寮をも利用して、壮大な陰謀を成就させるために徽子女王と博雅を使って晴明を引っ張り出して潰す。徽子女王のもとで起きた一件は、一方では博雅と徽子との”想い”の行く末という別のドラマを生み出すものの、それすらも晴明排除の為の「罠」として利用していくのでした。まぁ・・・その犠牲になった、特業生の橘 泰家(演:村上虹郎さん)はとんだトバッチリだった訳ですが。
 晴明は「自分が特別な存在である」と見られている事に非常な不快感を持っていました。そして事件が進んでいくごとに、その特別性は陰陽寮内では”羨望の的”となり、引いては嫉妬を招く元凶になっている・・・。そうした現実にイヤでも目を向けていかなければならなくなっていきます。
 そうしたストレスとプレッシャーが晴明を押しつぶしていく・・・”黒幕”はそれも考えたのかもしれません(実際は純粋に晴明の能力への危機感からだったのですが、本作における陰陽寮の連中が話す事、行う事から鑑みるとそういう事も”黒幕”は考えていたかもしれないなと勝手に想像)。
 しかし、”黒幕”のたくらみはことごとく裏目に出ていきます。”黒幕”最大の誤算は晴明はその不快で仕方のない現実を「運命」と理解・処理する事で冷徹に受け入れていった事でしょう。イヤなんだけど仕方がない、それならいっそ「イヤな世界」でどう立ち回るかを考えようと晴明は晴明なりに逡巡しながら、最終的に受け入れました。その結果、”黒幕”の陰謀と晴明の”トラウマ”の真相は白日の下に明らかにされ、晴明がこれまで出来る限り忌避してきたモノ=呪を最大限に使い、”黒幕”に対して「相応の報い」をもたらしました。
 自分が置かれた場所を、若者らしい葛藤や逡巡をしながらも晴明は臆することなく受け入れています。それは異様なまでに冷静に。原作である『陰陽師』シリーズにおいて、どこか人間離れしている「安倍晴明」は、自らの運命という「呪」を使う事で完成した・・・その過程を描いたものが『陰陽師0』なのかなと、個人的には思いました。

晴明と博雅の”冒険”が繰り広げられる ©2024「陰陽師0」制作委員会


大河ドラマと映画から考える「令和の晴明像」と「晴明説話」-現代に顕現した安倍晴明の姿とは

 さて、そろそろまとめていきましょう。大河ドラマ『光る君へ』、そして映画『陰陽師0』で令和の世に再び安倍晴明はこの世に帰って来ました。どうも安倍晴明という御仁は、世の中が混迷になると帰って来る傾向があり、まるで世が陰陽混沌を来たしている事を知らせにやってきているのかな、と・・・勝手にロマンを感じているのですが、それはともかく。

 「安倍晴明」が登場する2作品、そのジャンル(方向性)は全く異なるのですが、不思議な事に共通する所がいくつか見出せます。個人的にはそれが「令和の晴明説話」の特徴・・・つまり、令和という時代における晴明像なのではないかと思いました。
 そして同時に、その晴明の姿は翻って、彼から我々に発せられているメッセージなのかもしれません(無論、原作者や脚本担当者の意図もあるでしょうが、あえてそう表現しておきます)。

令和の「安倍晴明」像① ー冷静に分析、冷徹に判断する

 「晴明ブーム」は、紐解けばかなり古くからあります。田中貴子氏の著書である『安倍晴明の一千年ー「晴明現象」を読む』は、その「晴明ブーム」の歴史を紐解いているので是非とも一読していただきたいですし、詳細はそちらに委ねさせていただきますが、世に「安倍晴明」が”返って来る時”というのは、大体共通して「世の中が乱れている時」や「先行きが見えない不安な世情」の時だと言います。

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 前述の如く、平成の”陰陽師ブーム”も世相不安・・・殊に当時はアメリカでの同時多発テロ、それに伴うアフガニスタンでの戦争、そしてイラクでの戦争。国内も物騒な出来事が多発していた時でした。
 そして令和。新型コロナウイルスや元首相の銃撃事件、経済の停滞に政局の混乱という、”混迷の時代”がさらに平成から続く不安定さの残滓を引きずりながら、なおかつそれに輪をかけて”悪化”しながら、今もなお我々に「災禍」として襲い掛かって来ています。

 過去の例の如く、そのような不安の渦中に「安倍晴明」は、映画「陰陽師Ⅱ」から数えて約20年ぶりに”帰って来ました”。 しかして”令和の晴明”は、我々にまず「世間に溢れるモノゴトをよく分析し、冷徹になる」事を語りかけてきます。

 平安時代と現代、奇しくも真逆の状況にありながら、よく似ている状況があります。晴明が活躍した平安時代には当然ながら我々が使っているような情報ツールはありません。しかしながら、当時の人々は「風聞(ウワサ)」という情報に左右される事もしばしばありました。「~が言う事には」「~と聞いた」という書き方は良くされていますし、それに対して「もしそうであったらば」という感想を述べている事はよく見かけます。
 怪異や病気が起こると「この原因は祟か、呪詛か」と悩みます。また「呪詛したらしい」とか、「先祖の霊が現れた」などの情報も出回り、当事者や一族の者も混乱してしまいます。

 一方現代。平安時代と異なり、我々はインターネットという情報ツールがあり、24時間365日・・・時々刻々と変化する状況を知る事が出来ます。しかし、情報が氾濫するあまり、何が「真実」で何が「虚構(フェイク)」であるかが解らず、時に情報に踊らされる事があります。
 1000年以上時代が離れていて、かつ情報を得る手段が大きく違っても、私たちは虚実不明な情報に右往左往する点は今も変わらないのです。そして、情報というものは言語化(可視化)しなければなかなか相手には伝わりにくいものです。


 今振り返って思うに平成の安倍晴明像は、まだ「不思議な能力者」や「魔法のような力を持つ」という、目に見えないチカラを未だ求める”他力的”傾向がありました。90年代末~2000年代には既にインターネットはありましたが、今に比べると格段に劣る所がありました。要はまだ「できない事」も多くあり、故に「人智及ばざる力(目に見えないモノ)」の存在を「未来に出来るようになる事」に託して、どこかで認識し、期待を寄せていた事が影響していたと言えるでしょう。

 それが2010年以降、インターネットをはじめとした情報技術は格段に進歩。近年では人工知能(AI)も登場し、その技術は生活必需品となっていく一方で、戦争や情報操作、プロパガンダにも使われる時代となりました。平成の段階では「人智及ばざる力」だった部分が具現化される時代へと激変したと言えるでしょう。平成までは姿が見えなかった「不思議なチカラ」が、ある程度可視化出来るようになった、ともいえるでしょうか。

 しかして、”不可能な事” が ”可能な事”になると、”真実”と共に”作られた情報”もまた無秩序に溢れていく事になりました。

 氾濫する情報を見極める事は、簡単なようで非常に難しい事です。殊にSNSという情報収集効率を格段に上げるものが登場した事は大きな「岐路」となったと思います。

 
SNSは誰でもが匿名で情報を発信できるという点で、人々と情報社会との壁をさらに低くする事に大きく貢献したと言えるでしょう。

 しかし、有益な情報も共有出来る一方で、ソース不明の情報や信ぴょう性が低い情報も無数に出回っており、それを迂闊に信じてしまう人もまた沢山出てきています。ましてや「自己責任」が求められる時代。難しい事とは言え、我々はここにきて「真実を見通す目」が求められているのです。

 なによりも、今も昔も変わらぬ不変の事として、情報は言語化・可視化されて伝えられます。それ故、「伝え方」と「受け取り方」ひとつ齟齬が生じれば、そこに「誤解」という名の「虚構」が出来てしまいます。
 また、発信の段階で送り手の主観が入ると、これもまた純粋な事実とは異なる情報となり、最悪の場合はこれも「虚構」となって拡散されていきます。そして、発信者が元から何らかの意図ある場合は「操作された情報」という「虚構」として広がる。

 
しかし、受け取る側は、よほど必要な情報以外はその虚実を見極める事は(意外と)しません。故に、流れてきた情報をいちいち精査せずに興味のまま、あるいは機械的・作業的にさらに多くの人へと伝えてしまっている事もありますよね。

 我々はいつの時代も虚実混淆=陰陽混沌としたモノの中で動かされているのかもしれません。同じタイミングで現れた二人の安倍晴明は、実にその部分を指摘してくるのです。
 
 「光る君へ」における安倍晴明は、時に情報を上手に利用し、またある時はユーザーの都合に沿うように操作したりと、あの手この手で情報を利用する一方で、情報に惑わされる貴族からの相談に対しては冷静かつ冷徹に分析して事に当たっています。それが相手にとって不都合な事であっても、避けられない結果であるならば「まやかしの言葉」を使う事なく状況を隠さず説明します。

 「陰陽師0」の晴明も人間(自分も含む)の身勝手さを強く忌避し、なんでも都合よく理解しようとする事に対して複雑な思いを抱いています。陰陽寮で起きた”ある事件”でも、陰陽寮の学生たちは情報に惑わされ、黒幕は情報を上手に利用する事で晴明を排除しようとしていきます(最終的には物理的になっていきますが)
 劇中で「呪」、引いては「陰陽道」は”意識に作用し、暗示や催眠といった「思い込み」によって発現させるもの”だとしています。言わば五感によって得た「情報」をどう巧妙に操り、利用するか・・・それこそが陰陽道であり、呪であると捉えられるかと思います。
 しかし人間は情報を受け取る際、無意識に”善くも悪くも”振り分けてしまいます。劇中には「真実だけをみるんじゃなかったのか!」というセリフがありますが、晴明自身もまた情報の中にあるわずかな”真実”の手がかりを必死に探そうとするのです。

 これは翻って我々にも突き付けられたものだと思います。氾濫する情報の中に”真実”はわずかにしかない。それをいかに無意識的な情報選択(自分にとって都合の良い情報を選択してしまう事)をも排して冷静・冷徹に見極めるか。

 「光る君へ」の晴明もまた、世人の行いを冷たい目で見るシーンが幾度もありました。これは「陰陽師0」の”悩める青年・晴明”とは別ながらも、”円熟者・晴明”として世の中で起きる様々な事に思い惑う貴族達の、その心理を言葉という「情報」で上手に操作しています。しかして、その実は「状況の虚実を見極め、”うわべの話”=都合の良い情報や理解に逃げる」という人間の無意識的な習性を知っているからこそ出来るとも言えるのではないでしょうか。

 奇なる縁にて令和の同時期に現れた二人の安倍晴明は「氾濫する情報を冷静かつ冷徹に判断分析する”見極める力”」の重要性について語りかけてくる点で不思議にシンクロしており、「令和の安倍晴明像」というのは”不思議な力”に頼るのではなく、非常に現実的かつ冷静・冷徹な姿だなと思いました。

令和の「安倍晴明」像② -自分にすらも興味がない?ほどの「客観」

 そういえばもう一つ、令和の求める晴明像に共通点があるのは「冷めた性格」であるという所。
 自分の事もどこか客観的というか、まるで自分にすら興味がないかのような雰囲気を漂わせている所です。
 「光る君へ」のほうは公務員的一面が強く出ているという事もあって、”そういう意味”で「自分を客観的に見ている」というのもあるのでしょうが、それを抜きにしても、あまり生活感のない晴明像を見せてくれています。
 「陰陽師0」の晴明もまた、自分に興味がないかのような姿を見せますが、これも上述したように、映画の晴明は”悩める青年”であり、また”運命を受け入れる覚悟を決める”途上の晴明なので、”もがいている”という意味で「自分をも客観的に見ている」のかもしれません。

 ただ、いずれにしても”自分をも客観視する、俯瞰的に自分を見る”というのは、これまた現代の我々に求められる部分だと思います。我々は情報を見て、時に歓喜し、時に憤怒し、時に騙され、時に騙してしまっています。情報に踊らされている我々は”冷静になる事が出来ていない”・・・。
 限られた範囲でしか解らないが故に、”欠けている部分”を自分の中で勝手に肉付けしてしまう事もしばしばあります。しかし、その”欠けている部分”というものが大体は「大事な情報」になります。

 殊にSNSに顕著ですが、ある情報が投下されると轟々と唸りながら炎を上げます。適度な距離を置いておかないとヤケドしたり、引火したりする危険性を忘れてしまいますね。
 そこで「あえて一旦距離を置く」という事が出来るか。そして情報収集の手段を「それだけ」にせず、もっと広い目で見れるか。その為には、如何に渦中であっても冷静でなければなりません。

 ずっと書いているように陰陽師の奉じる陰陽道というのは、「天と人との関り(天人相関説、祥瑞災異説)」がその思想の根幹にあります。
 
当然ながら、ユーザーの「意思」と、占いや暦などから得た「情報」=回答が”異なる(意図しない結果になる)場合”もあります。そこで大事になって来るのが情報分析能力です。
 つまりは得た結果について、それを「よくない」とストレートに言っても良いか否か、陰陽師は悩んだと思います。人という者はワガママなもので、結果が良くても悪くてもストレートに言うと角が立つ。「吉なり。咎なし」と答えても不安がよぎるユーザーは「でも」「もしも」を言う。ましてや「凶なり。咎あり」となると・・・。
 実際に古記録を紐解いても、陰陽師が発言にものすごく気を遣っているなぁ、と思う部分があります。

 そういうデリケートなものを扱う陰陽師。ましてや安倍晴明ほどの「達者」と呼ばれる人物は、そういう所に長けていたのでしょう。要は相手と対面した時の状況や、相手の性格、相談内容、回答、あらゆる情報を頭の中でフル回転させると同時に、それらに主観で判断せず客観的に見る事で、結果の善悪関係なく相手に受け入れられるように伝える方法を考える・・・。

 ドラマ・映画の陰陽師像、晴明像の話なのに歴史的な見地を入れるのは野暮なところではありますが、「光る君へ」「陰陽師0」に登場する二人の安倍晴明は、図らずも”自分の事すらも客観的に見ている風”があり、”冷淡”で”冷静・冷徹”という点で相似しており、そこから史実上の陰陽師の心のありようについても、陰陽道研究をやっている者としては考えてしまうのでした。

令和の「晴明説話」-敵の情報を知り、それを”分析する”事で「退治する」

 ”令和の安倍晴明像”について、上述の事を大雑把にまとめれば「冷静で、情報処理能力と判別能力に長けた人物」であると言えるでしょう。そして、この姿こそが今の時代に求められる安倍晴明の姿なのかもしれません。
 そして晴明が対峙する相手も変わってきたように思います。平成までは悪霊・怨霊といった「霊」や、モノノケなどの”異形”、それらに起因する「怪異」といった「人智及ばざるモノ」で、それを「不思議な術(それを陰陽道の術として)」によって退治していました。
 しかし令和になって現れた安倍晴明は、神秘的な能力で解決するのではなく、起きている出来事の情報を冷静に分析して「本質」を明らかにして、対策を講じる事で解決に導きます。
 したがって、これまで「怪異」や「モノノケ」、あるいは「怨霊・悪霊」という姿で脅威となっていたモノも姿が変わり、冷静に判断すれば現実的な問題(自然の事)であるものの、「恐怖」「畏怖」といった思いによって冷静さを失ったり、「思い込み」や「暗示」によって”恐ろしいモノ”として見えてしまっている、という理解になっているのでしょう。
 そして、陰陽師=安倍晴明はその「情報に溺れてしまっている」人々の目を覚ます”冷や水”的存在(説明下手)・・・「恐怖」や「畏怖」といった”ソース不明のニュース”や”思い込み(補正)”、”憶測”の入った情報に呑み込まれてしまっている人の目を覚ます・・・というのが、「令和の晴明説話」なのかもしれませんね。

【参考・引用書籍】
原作 夢枕 獏 映画脚本 佐藤嗣麻子 『陰陽師0』(2024,文春文庫)
大石 静/NHK大河ドラマ「光る君へ」ストーリーブック 前編(2023,NHK出版)
田中貴子 『安倍晴明の一千年 「晴明現象」を読む』(2023,法蔵館文庫)
 


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