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「鈍感な世界に生きる敏感な人たち」


長い間、このタイトルにちょっとした違和感を持っていました。あなたたちもしくは自分も含め、自ら「敏感」と呼ぶのもどうかとは思うもののそれはこの際まだいいとして、それ以外の人や世界のことを「鈍感」と言ってしまっていいものか・・・というとまどいです。わたしは自分自身を「敏感」とはとらえてないうえ、この世界のことを「鈍感」と特に思っていません。敏感なのか鈍感なのかよくわからない、というのが正直なところです。そんなふうに前に述べたようなことになんだか引っかかっていて、今まで手に取ることはありませんでしたが、今回、ある人がオススメしているのを目にして急に気になり読んでみることにしました。長年遠くから見ているだけだったのに、ちょっとしたきっかけで急接近することってありますよね。


読み終えた感想としては、わたしにとって特に目新しい発見はなかった、というのが正直なところです。(「わたしにとって」というだけで、HSPのことをあまりご存じない方にはもちろん新鮮だと思います)。目新しい発見はなかったけれど、「だよね、だよね」という感覚を深めることはできました。「だよね、だよね」というのは、「こういう傾向がある、それは気質なので罪悪感や羞恥心を持つ必要はない」ということを何度も言ってもらえること。それによって自分が良くないと思っていた気質を少しずつ受け入れてることができる。一度や二度の情報だけで受け入れることは難しいので、こうして同じようなことを、言葉を変えて何度も自分に刷り込んでいくのです。わたしは太極拳を学んでいたのですが、型を覚えるのが非常に遅く、何度も何度も同じことをくり返さないと覚えられませんでした。やってもやっても覚えられず、やる意味があるのかと焦りや悲しみ、劣等感がじわじわと湧いてきます。そんなときは、「雨垂れ石を穿つ」という、石に落ちる雨だれが長い時間をかけて石に穴をあける様子をいつも思い浮かべるようにしていました。なにも進歩がないように思えても、地味にくり返しているうちに成果が出ることを信じて。自分の気質を理解し、受け入れるというのはその感覚に似ているように思います。


ひとつだけ引用。


「敏感な人は自己評価が低いのです。HSPの人たちは、自分とはまったく異なるタイプの行動が評価される文化で生きてきました。HSPのなかには、ほかの人たちから期待される通りの元気なキャラクターでいようと苦心し続け、本来のマイペースでおとなしい自分の性格を受け入れられたのは、年金生活に入ってから、などという人もいます。」


そうなんですよね。屋外で、複数で、元気に遊ぶことが推奨されていて、屋内で、多くて2~3人もしくは一人で、静かに遊んでいると、周囲の大人は心配する。今でも、屋外で大勢でやるBBQは大盛況です。わたしには一体それのなにがそれほどいいのかがわからないので、先日美容院に行ったときに美容師さんにたずねてみたら、「たぶん、昼間から外で堂々と飲めるのがいいんじゃないですか?」とのこと。だったらわたしはひとりで昼間から大阪の天満で飲んでいる方がよっぽどいいと思いました。やろうと思えばそういう場に出て、社交的な振る舞いもできる、というところがネックなんですよね。物理的に不可能じゃないからこそ、「自分の努力が足りないだけなのでは」とか「自分はわがままなのでは」と思ってしまう。「どうしてひとりで静かに遊べないの?」とは誰も言わないのに、「どうしてみんなと仲良く遊べないの?」という疑問はまかり通る不思議。



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