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“今、それ言う?”を言ってしまう


先日「洞察系HSP」をある人に説明していて思ったことを以下に。


そうそう、またお得意のエクスキューズを先に入れますと、「洞察系HSP」というのはあくまで自称です。その特徴にあまりに当てはまるのでまさにわたしコレだわ、と衝撃を受けたのでそうに違いないと自分で思っているだけです。なので「洞察系HSP」ってこんな感じ、と書いてはいますが、「いや違うけど?」なのかもしれません。


話を戻して、「洞察系HSP」の特徴のひとつに“今、それ言う?を放り込んでしまう”というのがあるんですが、たとえばどんな感じかというと、なにかの説明会に行ったとしましょう、その会で「そもそもこの会、開催する意味あります?百歩譲ってLINEで良いのでは?」みたいなそもそも論を言ってしまう、です。その発言をするまでには、「この会合の、時間を合わせたり割いたりする手間って必要?LINEでもよくない?いやでもこんなこと言うとひんしゅく買うかなあ、でもきっとみんな思ってることだろうし、言い出せないだけだろうし、より良くするためにはそっちの方向で考えた方が断然省エネだと思うからやっぱり言おうかなあ、ああ、言うのイヤだなあ、でもここはわたしが率先して提案したほうが・・・」とさんざん逡巡しますが、合理性とみんなのためを考えてこの「そもそもこの会、開催する意味あります?百歩譲ってLINEで良いのでは?」を苦しいながらも言ってしまうのです。


「洞察系」の“今、それ言う?”は、会合が終わりかけに「それ結論出ましたよね?」と言いたくなることをまた蒸し返してくるエンドレス系や、「それ会合が終わってから個人的に質問してくれます?」と思ってしまうハテナな質問をして会合を長引かせる系とは違い、会合自体の在り方や本質を問うてしまうものなのですが、いずれにせよ「空気が読めない人」と思われてしまうのは同じです。


もちろん黙っているときもあります。そもそも論なんか言っちゃうと、ややこしいことになるのはわかっているので。ですが、「いやもうこれどう考えてもムダじゃね?」「どう考えてもこっちの方がよくね?」というのを見過ごすせないときがあるのです。合理性を最重視してしまう。明らかにムダーっ、ああーっ、こうしたらいいのにーーっ、みたいな歯がゆいことに巻き込まれるのがほんとに苦痛で、やるのはご自由にですが、頼むからその合理的じゃないことにわたしまで巻き込まないでください、と思ってしまいます。


そもそも論なんかを言ってしまうとややこしいことになると書きましたが、その目の前のちょっとした「ややこしいこと」をくぐり抜けると広大な自由が広がっている、というようなことがあったりするじゃないですか。たとえば、会合をやめてLINEにしましょう、という提案なら、「会合をやめる手続き」「LINE登録する手間」みたいなことが立ちはだかりますが、それさえクリアしてしまえば今後の「会合の日時を合わせる手間」「その場所へ足を運ぶ手間」「時間を割く手間」などの全てが省けるから、それら二つを天秤にかければ思い切ってLINEにしてしまったほうがはるかにラクじゃないかと。


だからこの手の話をすると、親しい人なんかには「バカだねぇ」と言われることがあります。そんな会合なんてちょっとガマンすれば終わるんだから、頭を低くして知らん顔して通り過ぎるのを待てばいい、なにもわざわざ、ややこしいことを言って引っ掻き回したり目立ったりする必要はない、それが大人というものだ。ええ、ええ、言ってることはよくわかります。わかりすぎていっときはわたしも「なんてわたしはバカで幼稚なんだろう」と悩みました。子供っぽいヘンな正義感、正当性をふりかざしたいだけなのかとも思いました。しかしまあ、これもやっぱり“その手の人から見ればそうなのであろう”という話だと思うのです。(やっかいなのは“その手の人”が圧倒的大多数であり、圧倒的大多数の意見はまかり通ってしまい、圧倒的少数の意見が「間違っている」とされてしまうことなんですが)


ヘンな正義感や合理性を重視してしまうことが「洞察系HSP」と言われる人の特徴のひとつであることを知ったとき、霧が晴れたような感じがしました。この思考パターンはわたし個人の特性だと思っていたことが、そうではなくほかにも密かにたくさんいてそれに困らされていた(困るというほどでなくても)、わたしだけじゃなかった、ってうれしいことなんですよね。


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