苦悩と尊敬の相関

貴方は幸せそうな人を見てどう思うだろうか。

僕は全く尊敬に値しない人物だと考える。

これを嫉妬と捉えて貰っても全然構わないが真実はまるで違う。

僕は、この苦しみもがいてる人間が山の様にいる社会で幸せになれてしまう精神の鈍さに尊敬の念を抱く事が出来ない。

仮に何不自由ない生活を自らが出来ていたとしても他者はそうでは無く、病や貧困や戦争等でありとあらゆる苦しみを持って生きている人が居る事を認識していながら幸せだと思えてしまうのは心底利己的であるからと僕は捉える。

他者の苦しみを本当に理解しようとすれば幸せになどなれる筈が無いと考えるからだ。

逆に僕は苦悩している人間は心底尊敬している。

苦悩の質は問わない。

幸せになろうとしたが結果的に苦悩している人間であろうと僕は尊敬出来る。

動機はどうあれ苦しみもがきながらその苦しみと向き合いながら生きている現状に尊敬の念を抱く。

楽しいことや面白い事は皆望むが、楽しく無い事や苦しい事を誰も望まないだろう。

望んで無い事と向き合っているからこそ尊敬出来るのだ。

僕の中では苦悩と尊敬には明確な正の相関関係がある。

逆に幸福と尊敬には負の相関関係がある。

充実した人生を歩み、皆から尊敬されている幸福な成功者と呼ばれる方よりも、病気で自由な生活が出来ずに働けずに苦しんでいる生活保護自給者を遥かに尊敬出来る。

少し極端に僕の思想を表現したので色々とツッコミ所はあるのは理解しているが、キラキラとした表面上の結果や眩しさに流される現代には僕のような視点も重要だと思い書き連ねてみた。

補足しておくが僕は「幸せになってはいけない」と言ってる訳では無い。

むしろ皆さんに幸せになって貰いたいのだが、幸せな人間は鈍い所があるよ、と感想を述べているだけに過ぎないので悪しからず。



学生時代から幸せそうな人間を見ると、嫉妬とはまた違う感情で鼻で笑っている自分が居た。

それを上手く言語化する事は出来なかったが、自分の感情を整理していく事で上記の考えに至った訳だが、数年前に芸術家の岡本太郎氏が「幸福反対論」という名で僕と同様の主張をしていた事を知り、この感覚を抱いてる人間は一定数居るんだなと安堵した記憶がある。

「深く考えたら、人類全体の痛みをちょっとでも感じとる想像力があったら、幸福ということはありえない」と彼は述べている。



皆さんのご意見お待ちしております。





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