今年30才になる僕の人生回顧録

今年30歳になるので1つの区切りとして人生を振り返ってみる。

僕は1994年12月29日に札幌市内で生を受けた。

保育園児の時の話を聞くと、注意散漫でありドジ。

記憶にあるのは廊下を全力疾走して、亀を飼っている水槽を持っていた職員と激突して水槽を破損させた事がある(僕は無傷)

何に腹を立てたのか記憶に無いが、男性保育士に本気で蹴りを入れて抑えつけられた記憶もある。

恐らくいつも落ち着きが無く危なっかしい生意気な子どもだったのであろう。

小学生になってから授業をまともに聞いていた記憶が一切無い。
ずっと自分の世界に入って考え事をしていたのだと思う(この当時死に対する意識が強く、死んだらどうなる?どうせ死ぬのなら今何をしても意味が無いのでは?などと無限ループ的に考えていた)

まともに宿題をやった記憶も無い。
クラスの中で宿題を提出していない子は黒板に名前を書かれていたが、毎度僕の名前があるのが当たり前になっていたと記憶している。

当然勉強にはついていけず、何も理解していないまま学年だけは上がっていき、何も分からないので授業はほぼ上の空という状況に拍車がかかっていく。

テストの点数が悪いので小学生の時から頭が悪い、という印象を抱かれて実際にそう言われていたが「勉強してないから出来ないのは当たり前だろ。やったら普通に出来る」と内心思っていたのも覚えている。

そんな僕を見て父親母親は全く僕を否定していなかったのが僕の自己肯定感を高めた要因だと思う。
大事にされている感覚が強くあった。

特に父親は「勉強はやりたい時にやるのが1番。いつかそういう時がくる」とよく話していて、良くも悪くも勉強をしない事に僕自身一切抵抗が無かった。

 中学に入ってもひたすら上の空で勉強に力を入れる事等無かった。
中学二年生の時には現在も苦しみ続けている強迫神経症を発症。
自分は人を殺す為に生まれてきた存在で、死刑になる事は避けられないという強迫観念から毎日吐き気を催しながら生活していた。

さらに以前も伝えたと思うが、僕は中学時代毎日殴られるイジメを受けていて、それらも相まってとてもじゃ無いが勉強に力を入れる事等出来なかった。

中学時代の成績表は1と2が殆どだったので、受験も失敗。
札幌市内で1番偏差値の低い公立高校にも落ちた。

その後、通信制高校に入る(毎日通学のコース)

高校時代も症状が末期的に酷く、落ち着いて授業を聞いていられる程の精神状態では無かったが出来る範囲で勉強をしていた記憶があり、勉強の面白さに目覚めた感覚があったのは高校時代。

学校の勉強こそ疎かにしていたが、病気の不安や世の中に対する不安を解消するヒントを探す為に貪る様に本を読んでいたのもこの時期。

本には幾度も救われた記憶がある。

自分の抱いてる苦しみや悩みが霧散されるかのような人生を歩んでいる人が数多く居る事を知り、世の中の広さに自分の苦しみが小さく思え救われた。

専門学校に進学し、簿記を中心に資格取得に励んだ。

国公立の大学を中退した人間も学び直しの為に入学していたりするので、そういった人間と一緒に学んだ事で彼らの理解力の速さや知識の豊富さにも触れて刺激を貰え、勉強の面白さに気付き本格的に学校の勉強を学び直した。

この時期に僕は初めて時速の意味と2分の1が半分と同じ意味である事を知ったのであった。

本州とは何を指しているのか、さえも理解していなかったので今考えると驚きである(アフリカは国だと思ってた)

専門学校では学びの面白さに目覚め、成績に関しては上位に位置し、中学時代に考えていた「自分はやれば出来る」というものが事実だったと認識する事が出来た。

卒業後に不動産会社に勤めたが、正直病気の影響が酷く仕事にならなかった。

例えば、仕事で外にポスターを貼りに行く仕事を任された時には症状が出た時には自分が人を引いたのでは無いか?といちいち車を止めて確認に戻ったりと一つの仕事に異常に時間がかかっていた。

何をするにしても症状が出っ放しで仕事に支障をきたして周りからは使えない人間の烙印を押され数ヶ月でクビになった。

その後ガソリンスタンドでアルバイトをしながらフリーターとして今後の人生を考えていく中で、今1番何が自分はしたいのか?自分の病気上どの仕事が適正か?と自問自答していく中で昔から大好きだった「子ども」と関わりたい思いが強く芽生え保育士の道を志す。

フリーターをしながら保育士試験の勉強を一年行い、試験を受けた直後に合格発表も待たずに突如僕はヒッチハイクで日本縦断をしている。

札幌から沖縄まで様々な方々に乗せて貰い、語りながら旅を続けた。 

その後保育士試験に合格し、地元を離れて旭川に移住して隣接自治体の東神楽町で保育士として就職。

保育士として働く上で症状に苦しめられた事は毎日のようにあったが、目に見えたノルマが少ない事や子ども達や保護者が自分を必要としてくれる事で何とか気持ちを落ち着けて働く事が出来ていた。

やりがいのある仕事ではあったが、中学時代から抱いていた「この社会に自分の出来る限り最大限貢献したい」という思いを満たす為には保育士だけでは足りずに次のステップを目指し2年4ヶ月で退職。

僕自身、もっとも世の中を変革できる職業と認識している政治家に最終的にはなりたいという思いを高校生の時から抱いていて、その為には知名度の向上を測ろうと考え、退職後は日本全国を回りながらYouTubeに動画投稿したり、各地で1日に数百人に声をかけるなどする生活を送るが上手くいかず症状にも悩まされ失意のどん底へ。

お金も尽きていよいよ働かなければならない状況になり、どうせなら日本の南国地沖縄でのんびりと精神療養しながら働こうと考え、沖縄に移住。

移住しながら学童保育で子どもたちと関わりながら仕事終わりは配信アプリツイキャスで様々な人と社会問題について毎日討論議論するという生活を毎日送る。

その配信で出会った現新潟長岡市議会議員の三澤ひろと(その時は議員では無い)との出会いにより、地方議員選挙に立候補する事を決意。

三澤氏は「僕は次の統一地方選挙に立候補しようと思ってるんですよね。木下さんも最終的には政治家目指してるなら一緒に出ませんか?」と誘いを受け「確かにこのままだらだらと生活しているより、本当に社会を変える気持ちがあるのなら早い段階で立候補した方が良いな」と判断して立候補を決意(その時統一地方選挙は約2年後)

早速そこからは僕が選挙に出る自治体の調査から入り、さすがに地元では無い沖縄で出馬は厳しいと判断して北海道内でリサーチをかけ、美深町という自治体に辿り着く。

まずは過去の選挙結果から見て、最下位当選者の得票数が同程度の人口の自治体と比べて少ない事、そして配信で知り合ったリスナーが住んでいた事、そして以前から興味があった児童養護施設(何らかの理由で親と一緒住む事が出来なくなった子どもが生活している社会福祉施設)があった事が美深町に移住して選挙に出馬しようとした理由。

地盤も看板も無い僕なので、1人でも知り合いが居る場所である事が重要。
協力者が居ない場所で戦う事は本当に厳しい。

そして大人を信用していない子ども達に良い影響を与えたいという思いが以前からあったので児童養護施設が美深町にあったのは移住に至る理由として大きかった。
ここでやりがいを持って働きながら選挙に向けて準備が出来たのはモチベーションを保つ上で最適。

正直な話、結局は美深町で選挙に勝てると判断して移住したのが大きな理由。

そのぐらい戦略的に動かなければ何処の馬の骨とも分からない人間が選挙で勝つのは難しい。

児童養護施設で子ども達の心の傷に触れながら様々な事を学ばせて貰ってから1年半後に美深町議会議員選挙が有り、僕は予定通り出馬した。

結果はギリギリの最下位当選。

選挙中の出来事は以前書いたブログがあるので興味のある方は是非目を通して貰いたいと思います。

ざっくりとしてましたが、この様な流れで僕の人生の振り返りと致します。

今年で20代を終えて30代に突入する僕ですが、これからどれだけ結果を残していけるかワクワクしている自分に驚いています。

色々未熟な僕ですが、胸を張って20代を全力で生きてきた自信があるからでしょうか。

僕はこれからも悔いなく全身全霊でこの社会に貢献出来るように邁進して参りますのでどうか応援宜しくお願いします。

ちょっと格好付けすぎですかね笑

ただ偽らざる本音ですよ。

木下広悠物語 第一部完




























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