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自己照会#15「12/1のライブについて」

 11/29月曜の朝、父がくも膜下出血で倒れました。5段階あるうちの2〜3段階目ということで比較的軽症だとの事でしたが、俺が病院に到着した頃には鎮静剤の効果で意識はありませんでした。

 俺にとってはいつもの月曜日でした。明後日はライブだし、今週は頑張ろうって思ってました。最初は地元の友達からLINEが来ました。

「木下家大丈夫?」
「どした?何かあった?」
「救急車来てたらしいが」

 すぐに両親に連絡しましたがどちらからも返信がありませんでした。いつもは2人ともすぐに返信が来るのに。
 気が気じゃなくなって、思わず喫煙所に駆け込んだところで母から電話がありました。

 「父さんが倒れた。15時から手術。」

 母は泣いていました。火をつけたばかりのタバコを灰皿でもみ消して上司の元へ走りました。すぐに病院に向かいなさいと、上司は一切迷うことなく言ってくれました。急いで荷物をまとめようとしましたが手が震えて上手くいきませんでした。

 職場を飛び出し、最寄駅へ走ります。病院へ向かう電車の中で、「これは悪い冗談だ。きっと、ちょっと倒れただけで、俺が病院に着く頃には普通にしてるはずだ」と自分に言い聞かせていました。そんなはずはあるわけ無いのに。

 病院の門をくぐり、ICU(集中治療室)の前に着くと、電話で話した時よりは落ち着いたように見える母が待っていました。家族待合室の中で母から症状を聞きます。

「くも膜下出血で5段階あるうちの2〜3段階目、軽症だって先生言ってたよ。朝トイレの中で倒れてて、あと少し気付くのが遅かったら母さんそのまま仕事行ってたかもしれないな。」

 遅れて、顔を真っ赤にした祖母と叔父が到着しました。そうだよな、自分の息子や弟がこんな目になるなんて思う訳ないよな。なんてことをぼんやり考えていると、看護師さんから息子の俺にだけ面会の許可が降りました。
 初めて入ったICUの中はとても息が詰まりました。そこかしこに見たこともない機械と大量のチューブに繋がれた人達が寝ていました。そんな部屋の中の、カーテンに囲まれたベッドの上で父は寝ていました。いつもはいびきがうるさい父が、音ひとつ立てずに眠っていました。

 家族待合室へ戻ると、母と祖母と叔父が世間話をしていました。きっと叔父の気遣いだったのでしょう、なんてことのない、久しぶりに親戚と会った時に話すような、そんな話をしました。ただそこに父が居ないということを除けば、微笑ましい会話だったかもしれません。

 手術の時間が近づいてきました。書類にサインが欲しいということで、疲れ果てた母の代わりにもう一度ICUに入って父のベッドの前へ向かいます。看護師さんたちが色々と手術の準備を進めていくうちに、それまで物音ひとつ立てなかった父がいびきをかき始めました。いつもの、いつもうるさいなって思っていたあのいびきでした。その瞬間、目の前の光景が一気に現実味を帯びてきて、怖くなって、悲しくなって、俺は泣いていました。

 7時間にも及ぶ手術が終わり、面会の許可が降りました。人工呼吸器で弱々しく息をする父を見て、立っているのがやっとでした。主治医の先生の話を聞いても、現状を飲み込むので精一杯でした。

 そのまま実家に帰って、自分の部屋の中で考えました。俺は何をするべきなんだろう?俺に何ができるんだろう?そもそも、今の俺は何がしたいんだろう?家族と過ごすべきなのか?ライブをやるべきなのか?何も分からなくなりました。
 メンバーは、ライブの事はこっちに任せろ、お前は家族のことを優先してやれと言ってくれました。でも、答えは出ませんでした。

 次の日、会社を休んで面会開始時間の14時に合わせて病院へ行きました。術後すぐの話では、午前中には人工呼吸器が外せるだろうと言われていたのに、そこにはまだ人工呼吸器に繋がれている父の姿がありました。全身から血の気が引きました。なんだよ、手術は上手くいったんじゃないのか。どうなってるんだ。
 すると看護師さんがやってきて、父の肩を強く叩き始めます。曰く、麻酔は昨日よりも弱くなっているから起こしてあげられますよ、とのことでした。そんなに強く叩いて大丈夫なのかと心配していると、父がゆっくりと目を開け、そのまま俺の目を見ました。父の目には涙が流れていました。

 声を出して泣いたのは本当に久しぶりでした。その後すぐに父はまた寝てしまいましたが、その後主治医の先生から、人工呼吸器が外せなかったのは検査が長引いたからでこの後に外す予定だということ、後遺症が残るかどうかは麻酔が完全に切れるまで判断できないということ、そして脳の手術だからまだ気は抜けず、この先2週間は容態が急変することも頭に入れておいた方がいいということを聞かされました。

 帰りのエレベーターの中、安心したのか更に不安になったのか、またしても自分の気持ちが分からなくなりました。隣に立つ母も泣いていました。その姿を見ても、自分の無力さに腹を立てることすらできませんでした。それでも、俺には明日が来ます。結局、仕事はもう休めないので明日には千葉に戻らないといけません。メンバーにライブのことも含めて相談すると、千葉に戻ったあとやる事ないんだったらライブ出ちゃえば?と言ってくれました。その時は、どうせやれる事もないしそれならライブ出るか、というとても投げやりな気持ちでした。本当のことを言うと、12/1のライブは俺だけ不参加になる予定でした。ドラムのぽんちゃんがツイートしてた重大なお知らせっていうのはそれの事です。

 ライブ当日の朝、5:30に起きて埼玉の実家から千葉の職場へ向かいます。電車の中で、そして職場に着いて仕事が始まってからも頭の中がまとまることはありませんでした。それでも、ラママに着きさえすれば何かが変わるかもしれない。一縷の望みを持ちながら渋谷へ向かいますが、ラママがだんだん近づいてくるにつれて脚が、そして心が重くなっていきました。ラママに到着しても、対バンの方々のライブもほとんど見ることが出来ずにずっとステージ裏に居ました。衣装を着ても、髪をセットしても、挙げ句の果てにはステージで音出しをしても、脳裏には人工呼吸器に繋がれた父の姿が焼き付いて離れませんでした。本当にこれでいいのか?何が正解なんだ?俺は一体どうするべきなんだ?一曲目が始まっても、一切ライブに集中することができず、ギターを弾くことで精一杯でした。左手は膜が張ったかのように感覚が鈍く、右手は何度も固まって動かなくなりそうになりました。途中、吐きそうになった瞬間さえありました。いつもは楽しくてしょうがないはずのステージが、ライブが、ギターが。こんなに辛く苦しいものになるとは想像もしていませんでした。

 やっぱり、今日はステージに立つべきじゃなかったんだ。頼むから早く終わってくれ、早く俺をこのステージから降ろしてくれとさえ思い始めました。そんな状態で最後の曲、「Let’s fly」が始まりました。

「let’s fly 絶望を前にして」

 絶望を、前にして。それでも飛ばないといけない。それはあの日、バンドをやろうと決めた時に決心した、「どんな状況、状態でも、自分ができる精一杯をお客さんに見せないといけない」という誓いそのものでした。やっと、あの日に立てた誓いの意味を、本当の意味で理解しました。俺が選んだ道は、こんなにも辛く、苦しいものなんだ。込み上げてくる気持ちを抑えることはできませんでした。あの日流した涙は、嬉しいとかそういう気持ちではなく、悲しさと苦しさから出たものでした。

 そういうわけで、12/1のライブはあの様な形になってしまいました。楽しみにしてくれた方にも、対バンの方にも、そしてライブハウスの方にも申し訳なく思います。流石の俺も、親が倒れたらすぐには立ち直れないみたいです。みっともない姿を見せてしまって、本当に申し訳ありません。
 
 12/3現在、父は快方に向かっています。今日はどうやら車椅子に乗って、自分でご飯を食べたそうです。本を読んだり、会話したりもある程度できる様になってきたみたいで、とても3日前に頭割って脳みそ弄られたとは思えません。人間の回復力ってすごい。そう、父は前に進んでいます。それを間近で聞かされている俺が、前に進まない訳にはいきません。ライブが終わってから、周りがよく見える様になってきました。今の俺にできることは、まずは母を支えること。そして、バンドを応援してくれる皆に元気な姿を見せること。ちゃんと順序立てて考えれば、こんなにもシンプルなことだったんですね。流石に今はバンド最優先にはできませんが、またステージ上で元気な姿を見せたいと思っています。
 正直、やっと前を向ける様になってきたというだけで、今すぐに以前の様にギターが弾けるかというと少し自信がありません。でも、必ずまたステージの上で、ギターの楽しさを心の底から味わえる様になりたいと思っています。バンドは、WeaJは止まりませんし、ギターはKinoshita Under Woodのままです。この5人で、思い切り全力で音楽やって、最高な酒を浴びるように飲みたいと思います。
 だから、どうかその日が来るまで待っててください。木下家の長男の木下湧太のことも、WeaJのギターのKinoshita Under Woodのことも応援してくれると嬉しいです。

 以上、最後まで読んでいただきありがとうございました。WeaJより、Kinoshita Under Woodでした。

 

 

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