私という運命について

 白石一文さん原作、私という運命についてのドラマをみた。

普段からドラマや映画にふれる生活を送っているが、最近は疲れからか長時間画面に向かったり考えること自体が億劫だったのか何もみていなかった。

久しぶりに一息つける余裕ができ、何を観ようかとリモコンを持ってみたら行き着いたのがそれだった。

はじめは5話完結か、と思いきや1話が長いな?と流し見をしていた。93年という時代設定も、自分が生きている年代じゃないのでそこまではまり込まなかった。
が、ぐっとおもしろい、と惹きつけられたのは2話目、亜紀が迎えたマレーシアでの誕生日、純平からの電話が鳴ったあとホテルの部屋のベルが鳴ったところだった。
私はあそこで純平でなく康が現れるのだと思って、含み笑いをした。が、違った。

え、違うの
という違和感からどんどん見進めていった。

亜紀は康への想いがありながら純平を選んでいて、なんでこういう選択ができるのだろうと不思議に思ったりもした。が、煮え切らない感情、自由に踏み出せない感情なんて数えきれないほどあると最近は思うようになってきた。

でも実は自由に踏み出せないっていうのも自分がブレーキをかけているだけだったりして

なんて
元々考えることは好きだが、年々考える事柄が増えてきている気がする。それだけ大人になったしなってしまったんだなという気もする。

最近見た 私を離さないで、だったり、なんだか暗いというか哀しさのある話が好きなのだろうか、以前友人からも あなたは重い話が好きだよね、と言われた。たしかに、そういうものを選ぶ節はある。どうして憂いのあるものが好きかはよく分からないが、自分の中で哲学をしたがるのだろうか、心の奥底の感情に触れたいと思うのだろうか、なぜか好きなのだ。

哀しみの中にもどこか救われたい、そんな気持ちでいつも観ているように思う。
以前ドキュメンタリーの中でグザヴィエドランが言っていたが、
絶望したくて映画をみるひとなんていない

きっと自分もそういうことなんだろう。
哀しさのあるものにも希望を持ちたがる、人によっては綺麗事ばかり言うなと言われるような感情があるのだろう。

ありきたりかもしれないが、
運命てなんなのだろう、運命を信じたい、というほんとに漠然とした気持ちもある。そういった感情が自分の中に居る。馬鹿馬鹿しいと思われるかもしれないが、事実だ。

主人公亜紀は仕事もできるひとで、できるが故に人に甘えるのが苦手な部分も持ち合わせているように感じた。
そんなひとがこのひとだ、という相手を想うとき、その相手には素直になるとき、とてもとても美しかった。

自分にもこんな相手がどこかにいると信じたくなった。なんなら信じている。
まだ先へは辿り着いていないし、着くこともないのだろうけど、自分にとっての素直になれる相手は命から(心から、のような感覚)大事にしようとおもう。

間違っても自分の心に蓋をしたり嘘をついたりするのだけはやめよう、と感じる。
心がしぬこと以上に辛いことはないだろうから。

白石一文さんの火口のふたりで好きな言葉がある

ちゃんと身体の言い分を聞いているか

これが肝心だと想う。

私と言う運命の中の 私 の道は、決していいことばかりではなかったけど、みの周りのひとを愛してこそ、生きる それが彼女の強さを感じさせる要因だったのではないかと思う。

白石一文さん、素敵な価値観に出逢わせてくれてありがとうございます。
家で1度読んでから眠っている ほかならない人へ、再読しようと思う。

p.s.想いをまとめるの、難しい
つらつら、つらつらと打ち込んだ文章は後になって読むと話が行き交っていてわかりづらいな。

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