無題


 これまで多くの小説を読んできた。世間一般に「趣味は読書です」と言い張る者の何百倍と嗜んできた自信がある。

 しかし、いつからか小説から離れるようになった。人は歳を取ることで価値観が変わり,自分の中の流行りが変わる。

 社会の流行に乗れなくても自分の中のそれに乗れないのは少し恥ずかしいようで、自然とそうなったのだろう。

 最近、私はふと小説を手に取った。引越しのときに処分するのを躊躇い一度綺麗にして運んだはいいものの、引越し後も相も変わらず埃を被ってしまった彼らをなんの気まぐれか手に取った。

 この日から私は電車に乗る際に必ず本を読むようになった。スマートフォンのスクリーンタイムが平均1時間を切っていく。私はこれほどまでの時間をスマートフォンと向き合っていたのかと気付かされる。最初に手に取った本は私の人生で一番文学を味わえると感じた川端康成氏の『雪国』だった。

 若気の至りで初めて手に取った『雪国』と、紆余曲折、歳の功を重ねた手で取った『雪国』はまるで別の世界だった。あの頃の目の前に広がった白銀の世界はそのままで何も変わっていないのに。

 そうして『雪国』をスタートラインとして自分の家の本棚を毎日触ることになる。ジャンル分けされることなくただ本棚に並べられた本を、懐かしい記憶を振り返りながら眺める。

 この本はあの日誕生日に貰った本。あの本は高校の教科書の裏表紙に書かれている小説をコンプリートしたくて買った本(ほとんどは図書館で借りてコンプリートしたから数がない)。おお、これは懐かしい。星新一じゃないか。

 私はジャンルを問わず何でもかんでも端から手につけた。SF、ホラー、ミステリー、推理、恋愛、ファンタジー、ライトノベル……ときには感動し、ときには驚愕し、さまざまある中であることに気づいた。

 内容の薄い本があることだ。私の本棚には面白いと感じた本しか並べない。そうでないものは基本的に他人にあげるか舞洲の埋立地になっているかしていた。

 「歳を取ったなぁ」とすこし残念な気持ちと、すこし嬉しい気持ちが入り混ざった。

 そんな中、本棚の外から新参者が現れる。新参者は如何にもな題名で古参の隣に足を大きく組んで座る。「わたしは現代の代表だ。古めかしい小説どもめ」私の心は新参者への敵意で充満していた。わたしの本棚に並ぶ小説たちは私の人生であり私を形成する私そのものだ。それを馬鹿にする新参者は許せない。

 違う。馬鹿にしていたのは私だった。新参者の小説はまた素晴らしいものだった。その小説はたまたま書店に行き、偶然その場にいた友人にいいかげんに選んでもらったものだった。

 その小説の中には小説が好きな人物(以下Aと呼ぶ)が登場する。Aの人生を変えてくれた小説は、世間一般では中高生受けする小説であり、大人が読めば内容が薄い、浅いと評されることもある小説だった。

 Aは自らの人生を変えた小説を愛し、何度も読み、そのために人生を使っていく。そんな中で大人になり中高生受けするその小説は世間からは忘れられていく(作中では"抜ける"と表現された)。

 だが決してAから抜けることはなく、最後までその小説を好きなままで、自らの人生を歩んでいく。

 Aは言った。

「世界中の誰もが忘れようとも私は絶対に忘れない」

 その文章を読んだとき、私の頭にガツンと重たいものがのしかかった。私も過去に星新一氏の小説を愛し、彼の小説に人生を変えられた。何度も同じ文章を舐めるように読み、あっと驚く結末も何度も味わい、自然と暗記し、それをあらゆる場面で引用し、言葉にした。

 私の言葉、思考、細胞に至るまで全ての私は、彼の本から生み出された。だからこそ人生最大の作品『雪国』にも出会えたのだと今にして思う。

 Aの言葉にわたしは共感した。

 Aは作中、最後まで小説を愛する。作品には描かれてはいないが、その後も必ず小説を愛していたはずだ。

 私はAと違い、人生を変えてくれた恩人の存在を忘れ、仇で返していた不届きものだ。

 私はまた星新一氏の小説を手に取り、また『雪国』を読む。これからは手から離すことはないだろう。

 世間では"抜ける"ことを大人になると定義される。大人になれば豊富な知識と経験を手に入れ、少年少女の頃とは見方が変わり、"抜ける"。

 Aは「"抜ける"くらいなら、大人になどなりたくない、子どもを忘れた大人のどこに価値があるのか。捨ててはならないものを捨て、余分なものばかりを取り込み肥え太ったものに価値があるのか」と叫ぶ。

 Aは子どもを忘れていた私にもう一度思い出させてくれたのだ。いま再び忘れてしまってはもう思い出すことはないだろう。

 この文章はこれを読むあなたに「小説を読め」と啓発するものではない。小説の世界に足を踏み入れない者など私は感知しない。そういうことではないのだ。

 私は何かに駆り立てられるようにこのノートを書いている。この気持ちを書き留めることで、未来の私が"抜ける"ことを阻止できるだろうか。そんな淡い希望を抱いているのだ。

 小説は私の人生そのものであり、"僕"の親友だ。

 僕がまたいつの日かこの文章を読み「何を当たり前のことを」と一笑してしまうことに期待したく、ここで筆を置くことにしよう。

 未来の僕がまたこれを読むことがあればこの一言でわかっていただきたい。

 「世の中には短く要約できないものはない」

 これがわからなければ君はまた"抜けて"しまったことになる。

理解できたならば、過去の僕から感謝の意を示す。


ありがとう。



追記

実はこれを書き終えて1週間が経つ。
まだ書き足りないことがあって再び筆を取った。実に私らしいことだ。書き始めてから何を書くつもりだったかさっぱり忘れてしまった。

小説とはただの物語にしかすぎない。しかしそこには言葉が詰まっている。書き手の言葉しかそこに存在しないように思えるだろうが実は違う。小説にはキャラクターが登場する。
小説家はそのキャラクターに喋らせるのだ。書き手が喋るのではない。
キャラクターはそこで生きている。
そこで考え、言葉を使い実在しているのだ。
どうしてそのキャラクターがその言葉を使い、その間を置くのか。細かく考えたことはあるだろうか。
言葉のみで表現する小説にはそこまで考え尽くされていることを忘れてはならない。考えていなくとも人と人との言葉には自然とそれが込められる。
結局私は何を書きたかったのか。掴めそうで掴めない。また小説に手を伸ばす。
次はどんな小説に出会えるだろうか。

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