流れる

紙とペンはワーキングメモリとして非常に優れている、と思う一方で、上等な紙や上等なペンを買ってしまうと、誤記や悪筆への不安やもったいなさが勝って、何も書けなくなってしまう。わら半紙やチラシの裏や、親が安いからと言って買ってきた好みでもない大学ノートの方が、結果的に瞬時に書き殴ることができて、大切なものになるのかもしれない。

という文章をキーボードで打っている現在、かなり自己矛盾を感じてはいるものの、やはり文明には感謝したいと思う。何せ私は筆圧が強い。ペンを長い間握っていられない。万年筆なんかの力を入れずに書けるものとは程遠い生活をしていたので、今更そちらに慣れることはできず、なぜか小5の頃に一部のクラスメイトの間で流行になった電子メールを始めることで、タッチタイピングが得意になってしまった。そして今はスマホでフリック入力の速さに驚かれている。しかし、正直、ぶっちゃけ、脳の方がスピード超過しているのだ。言語をアウトプットすることが思考にブレーキをかけている。というか、脱線する。打ち込んでいるうちに話したいことは上書きされ、別の話題が見え隠れする。この文章だって、最初は「2009年と2011年の8月、敵わないと思った女の子の話」を書こうと思っていて、次に「真夏くんという名前の男の子がいた」という書き出しを考えていた。どちらも特に結論のない、ただ傾斜があるから流れていくような文章だった。流れて、海にたどり着いて、見えなくなってしまった。海の中にはそうした宝物がいくつも眠っている気がする。みたいな文体になってしまうのは先ほど詩集を読んだからだろう。詩人をやりながら労働者になるのは難しいし、特に学者はもっと難しいと思う。学者は詩人になってしまってはいけない。学術論文はあくまで客観性や再現性、定量性が求められるからだ。私はどちらかというとそちら寄り(本当に?)だという自覚はあるが、たまに詩人の気分にもなる。高校生の頃の私は森博嗣の詩集を読んでいた。あの人は学者でありながら詩人であり小説家であり、よくわからない。よくわからないのにちゃんと生活は送れているらしい。「詩人か高等遊民か、でなければ何にもなりたくない」というのは母校の母学部(?)の大先輩の言葉だが、大いに賛成である。よくわからなくなりたい。何者にもさせないで。

9月3日が終わってしまう。月命日が終わってしまう。何かを刻まなければ、きちんと祈らなければと思う。思いたいと思うことに理由が必要ですか。喘息の症状が出るようになって、線香をなかなかあげられなくなったのは、あなたのやさしさですか。毎月3日は涙を流すのだと特に決めていなくても、源泉は不必要なほどに潤沢です。

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