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西の才女が死んだ

メメント・特盛。

たぶん、思い出してしまうのではなくて、思い出さねばならないと心の底から思っているんですよ。あまつさえ全人類に知ってほしいと強要したいと思うほどかもしれません。私にとって12月はそういう月で、足音が近づいてくるとそうならざるを得ないんです。ソーリー。



もう十年と少し前の話なんですが、当時のガラケーに一通の訃報メールが届きまして、所属楽団の先輩であるところの大学3回生の女性が亡くなったということと、葬儀の日時や場所についての情報が簡素に記されていました。

同年代(プラマイ2年ぐらいは同年代カウント)の死というのはこのときよりもさらに5年以上前、中学生の頃に既に経験していたので(同級生のヤンチャ坊主が軽トラに跳ねられて脳挫傷)、確率としてはそういうもんか、という感覚はありました。ただ、同級生のときと明確に異なる点があり、しかしながらそれについて訃報の送り主に尋ねることも憚られたため、独自に調べることにしました(そういうとこやぞ)。

彼女の下宿先の住所もご実家の住所も、本棚にしまってあった楽団の名簿に書かれていました。それから少し日付を遡って、そのあたりのローカルニュース、あとは大島てるを検索しました。大島てると言ってしまったので賢明な読者の皆様はもうお分かりかと思いますが、同級生のときと異なる点というのは「死因について触れられていなかった」ことです。長く病気を患っていたという話も聞きませんし、最後に楽団の活動で会った日時からそう経過していないこと、ご実家は関西の他府県でご自分は大学の近くに一人暮らしをされていること、理系学部の3回生ならばまだ学生実験で大学に行く機会があったのではないかということなどを総合的に考慮すると「発見が遅れた」可能性は低く、交通事故の可能性がかなり高いと見積もっていたのですが、偶然による不幸な事故であったなら、普通はそう書きませんか?


彼女にそこそこ近い人物から真実を聞き出せたのは、私が大学院修士課程を終えてからでした。とはいえ、彼女が決断するに至った詳細までは存じ上げません。知ったところでどうすることもできないし、死因によって供養の手厚さが変わる訳でもないし。



彼女の件そのものについては一旦おしまい。


ところで最近「世の中は理不尽なことだらけだけど、せめて自分の身内(血縁者に限らない)だけでも穏やかに健やかにあってほしい」的な祈りを耳にすることがしばしばあるのですが、こちら、祈りとしては正しいと思います。いや正しいもクソもあるか。私が判断することではないよ。ただ、私としては「身内でさえ守ろうと思っても守れない」と思っておいた方がいいんじゃないかなと考えています。なぜって近しい人物の自死を止めることは困難で、かつ止められなかったのは近しい人物のせいではないからさ。

個人の力が生命をどうこうできる範囲なんてたかが知れています。というか、「受験に落ちた」「恋人に振られた」みたいな分かりやすいファクターがきっかけでよし!死のう!死んだ!となるケース自体がたぶんレアです。フィクションではそっちの方が分かりやすいからそう描かれがちなだけで。

一度深く沈んだ身として、あとは深く沈んだことのある上司の言葉も参考にしますと、「あれもやった、これもやってみた、でもどうにもならない、自分にできることはもうない」という無力感の重なりでできた訳の分からない最悪のミルフィーユが人を死に追いやるのだろうと推測します。「会社をクビになった」みたいな一見分かりやすいファクターの裏にも、クビになった→就活をした→不採用だった→これから先どうやって生きていけば……といった連鎖的な不安があり、それらの不安が人の思考を狭め、余裕を削っているということはほぼ間違いないと確信しています。だから私は、人がそんな訳の分からない不安のミルフィーユに潰されないような、潰されてしまうと怯えなくて済むような「社会全体としての空気」を作る方が、個別具体的な「せめて身内だけでも」の祈りよりも有効なのではないか、と考えるようになりました。

個から個への祈りは強いです。理解のある身内も強いです。でも、誰にも祈られない(と思っている)人や、身内に頼れない(と思い込んでいる)人がいて、そういった人が極悪ミルフィーユ状態になるんじゃないかしら。実際そうでなかったとしても当人にそう思わせてしまっているのならば、それは当人の近くの人のせいというよりは、無意識の言動で当人を刺すおそれのある「顔も知らないその他大勢」の方なんじゃないかしら。「あの人は繊細だったから、世の中の理不尽に耐えられなかったんだね」なんて他人事で言うとる場合やないんですよ。


公表しない選択、むやみに詮索されたくない気持ち、理解します。やれ親不孝だなんだと無責任に非難するアホから遠ざかりたいのは当然です。可能な限りご遺族の気持ちに寄り添いたいとも思っています。ただ、血縁関係にないとはいえ言ってしまえば私も遺族のひとりではありますし、「いなくなった」という事実だけで悼めるほど出来た人間でもありませんし、何よりその決断(に至った背景すべて)と同じくらいの痛みを私たちも背負わなければ公正でないと思うので。

他人の痛みなんて分からないですよ。分からないから、想像しなければいけない。したくなくても、しなければいけないんです。分からないから仕方ないというスタンスのままでは自分もいつかすり潰されるっていう想定、難しいですかね。いやまあ自分ひとりすらまともに食わせていけない私が言う話ではないんですけど、違うな、誰なら言っていいという話でもないので、私が言います。「何よりもまずは自分がうまくやってから」という考え方が自己責任論を生んで、ミルフィーユの原料になってます。人に、必要以上の自責を強いています。お願いだから、自分に課す教訓はチラシの裏に書いてトイレに貼っといてください(私は他人に課したいのでここに書いています)。うまいこと言ってRTされようとか、フォロワーを絞った鍵アカで「身内」にふぁぼられようとか思わないで。そうやって表明して賛同されることに価値があると思わせてしまう世界は、とても空虚です。

私はいつも、優しくなりたいと思っていますし、他人がもっと優しければなあ、と思っています。あなたはどうですか。みんながみんなに厳しい世界、苦しくないですか。「自分には信頼できる家族や友人がいるから、これで十分だよ」って、十分じゃない人の前で言えますか。色々なことが不安なのに不安を口に出すと「甘えだ」と突き放されてしまうから、と全部飲み込んでる人がいることに気づかず、あるいは気づきたくなくて(責任を感じたくなくて)、「人生そんなもんだよ」と言っていませんか。



誰の死も教訓にしたくないから、これが最後になるといいな、といつも思っています。いつも、想っています。届いてるかな。返事を聞いてみたいんだけど。

いない人は返事をしてください。

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