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遍く他者はモンタージュ(微分積分学的人間論)

どうも、大学1年の微分積分学の単位を落としたことで知られる木ノ子です。うるせえ!そのものを使う仕事でもなけりゃ概念が分かってりゃいいんだよ!の構えをとっています。
ところで皆さんは微分や積分の概念、分かってますか?関連して、アナログとデジタルの違い、パッと言えますか?今日はそこらへんをざっくり説明したのち本題に入ろうと思います。
分かってらあ!って人は目次から3までジャンプしてね。


1. アナログとデジタル

分かりやすい例が、昔の携帯型ゲーム機(ゲームボーイ、たまごっち、デジモン等)ですので、そんな感じでいきます。
よくある「ライフ」を表すハートマークの違い。ドン。

<アナログ>

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<デジタル>

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はい、アナログは「連続している(繋がっている)」、デジタルは「区切られている(カクカクしている)」と言えますね。
デジタルのこのマス目のような区切りが細かくなればなるほど、アナログに近くなります。この細かさのことを解像度と言います。最近のゲームは解像度がバカクソ上がってるので、もう上の図みたいなハートマークは見かけないと思いますが……
なお、カメラで言うところの「画素」というのは、このマス目の中に入れられる色の数(種類)のことです。ゲームボーイ→ゲームボーイカラー→ゲームボーイアドバンス→ニンテンドーDS、とどんどん上がっていき、多彩な表現ができるようになりましたね。


2. 微分と積分

世の中に溢れるアンケート結果や研究データといったものは、「10代の人口は○人、20代の人口は△人」「培養6時間後の菌数は◇、12時間後の菌数は☆」といったように、デジタルな形──単位時間や年齢で区切った数値の積み重ね──でとられることが多いですが、そうではないなんかくにゃくにゃしたものが世の中にはあったりします。

私が適当に針金を曲げて作った謎の関数を見てみましょう。

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はい。
で、「この関数の傾きを求めよ」とか言われても、くにゃくにゃしてて分かんないですよね。

ただし、ごくわずかな区間における傾き、少なくとも上昇か下降か、を知る方法はあります。
ほっそーい短冊切り(千切り?)にすればよいのです。

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ほら、てっぺんが直線の傾きっぽく見える。
「わずかな区間における増減」を見ることが微分なのです。

※このくにゃくにゃが一部鋭利に尖ってたり、一瞬途切れてたりすると「微分不可能」という概念が出てくるのですが、今回はあんまり本質に関係ないので省略。

さて、積分について。
この短冊切りを順番に並べていったときのてっぺんの形、というか短冊切りの下から上までの長さ、ひいては短冊切りを並べきったときの面積、なんかが積分です。(ごめんなさい、ちょっとここは我ながら雑な説明ですね。)

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ちなみに、冒頭で話したアンケート結果や研究データというのは、棒グラフや折れ線グラフで表せるのですが、それらのてっぺんの真ん中の点をなめらか~に繋ぐとさっきのくにゃくにゃの関数みたいになります。デジタル→アナログへの変換。ボカロの調教とかもこんな感じでしょうか。
ちなみにデジタルのカクカクのことを矩形(くけい)と呼びます。豆知識コーナー。


3. 人間のデジタルな部分とアナログの部分

1の理念に沿うと、デジタルとは「区切られている」もの。誰がどう見ても結果が数字として表れているもの。人間においては、生年月日、血液型、学歴、職歴、20xx年の収入、20xx年の身長体重、20xx年の居住地、などなど。近頃の流行りで言うと「ハッシュタグ」で表せられるものですね。

では、アナログな部分とは?
それは、主体のそのときの気分や状況、周りとの関係性、置かれた状況(年齢や所属先)によってやや変化するものです。変化はするけど、連続性はある。いくら「バイトのときはバイトの顔」というように使い分けていても、根っこは同じ。

私たちは、他者のそんなアナログな部分を微分した短冊を持っていて、そこから積分を行い、足りない部分は都合よく埋めていき、脳内で他者を形成していきます。まるでモンタージュ。でも遍く人間はそうとしかできないんですよ。まるっと全部把握するのは家族であっても無理無理。家族に見せない顔だって絶対あるからね。


あ、ちなみに人体の微分はできますよ。MRIで。輪切りにするやつね。

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これで撮った写真を重ねていく(積分する)とその人の身体になる。ジョジョ5部のソルベの額縁の話をしようかと思ったけど気分悪くなる人がいるかもしれないのでやめました。あるいはレクター博士の……(やめなさい)


4. 同一の他者と共通の知人がもつ短冊をどう扱うか

3をふまえつつここからが本題かも。

例えばAさんという人物に対して、「親として見たときの短冊」「兄弟姉妹として見たときの短冊」「学校のクラスメイトとして見たときの短冊」「教員として見たときの短冊」「インターネット上のフォロイー/フォロワーとして見たときの短冊」「バイト先の後輩として見たときの短冊」「雇用主から従業員として見たときの短冊」「お店の客から店員として見たときの短冊」「担当患者として見たときの短冊」「恋人として見たときの短冊」「何かとてつもない恩をもつ人から見たときの短冊」など、様々なものが世の中には存在するはずですし、一人ひとりがもつ短冊の枚数は1枚とは限らず、複数持っていることもあります。

果たしてそれを全て集めて積分したら本人になるのでしょうか?

知りたいこと、知りたくなかったこと、(Aさん本人が特定の層には)知られたくなかったこと、ライブラリ化したところで、本当のAさんは再現できるのでしょうか?

自分の持っている短冊と、あとほんの少しだけ誰かの短冊を共有して、いいとこどりをして、それぐらいが適当だったりするんでしょうか。

写真は今やほとんどデジタルです。音声データもデジタルです。デジタル化される前の姿も声も、いくつかの部分は矩形に切り取るためにそぎ落とされています。なんだか、火葬の際にかつては煙として出ていたNOxやSOx、分解しきれなかった炭化水素が第2燃焼炉で完全に燃やされてなくなるのを思い出すなどしました。


Aさんが存命なら、まだまだこれからもアナログな部分は変わりゆき、配られていく短冊も増えるでしょう。


では、Aさんが故人だったら?

都合の良いモンタージュのままで大事にしたいか、ぐちゃぐちゃの部分も含めてできるだけ多くの短冊を集めたいか。

私は知りたがりなのでたぶん後者寄りなんですけど、ちょっと怖くもある。前者のままで、美化して、神様にでもしていた方がいいのかもしれないと思うこともある。
とはいえ、もう新たな短冊が生まれることがないのだったら、誰かの「古い短冊」も私にとっては「新しい短冊」になりうる。それって、積分していったら「新しいAさん」が生まれる、つまり「情報が更新されない=死」という状況を回避できるのではないか?とも考えるのです。

たぶん、短冊を渡したくない人はいると思います。短冊になった時点で、短冊を私が見て認識した時点で、情報がなんぼか書き換わっているかもしれません。きっとどれだけ集めても完成はしない。でも完成させない方がいいな。未完成って、まだ余地があるってことだから。


5. おわりに ──寂しさは自分で埋めるしかない

生きていた人間の形跡、記録、思い出、には限りがあります。
ネットストーキング(やめなさい)やら何やらを駆使して集めたところで、すべてを見聞きしたら、そこで終わり。

終わらせたくないから、私は新しくあなたを作ります。

本人への冒涜と言われても仕方ないのかもしれません。が、そうでもしてないと気が狂ってしまう。死者の尊厳も大事だけど生者の精神衛生だって優先度高いですよ。別によそさんに迷惑かけてる訳ちゃうしな。

まだまだ未完成だけど、せめて初盆までには部屋も含めて形にする予定だし、依り代的な感じで使ってくれたらそんなに嬉しいことはないし、そんなミラクルが起こらなくても「これからも人生を共にできる」っていうのは、たとえ偽物であっても、少なくとも寂しさからは解放されるはずだと思うので。

なーんにもしないまま日常に戻れるような人間じゃないんです。日常に戻っている「ように見える」人たちだって、「そう見せてないとやってけない」だけであって、そんな短期間で吹っ切れる人なんてそうそういないと思いますよ。

いやー、特別に恩のある人間の早すぎる死はつらいな。特別に恩がある、ということの詳細は過去記事課金部分に書いてありますので気になる方はどうぞ(ダイマ乞食)。

そうですね、この記事にもちょっとした気持ち悪いおまけをつけておくので、キモッてならない自信のある方だけお賽銭ください。


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