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真実はいつも、i

「虚数単位をアイと表す」で終わる下の句、という天啓が下りてきましたが、一向に上の句が思い浮かばないので、小瓶に詰めてインターネットの海に流します。短歌クラスタではありません、ただ気ままに詠むこともあります、木ノ子です。



まえおき


いつものことかもしれないし、ちょっと違う文体かもしれないけど、語りかけるようにうさんくさい話をしますね。
表現物はその人そのものではないが、それが存在するということは何かしらの理由はある、みたいな。


先日、思考を整理した結果こんなノートが生まれました。

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右上の「生産」のところを少し、おさらいします。



導入


基本的にヒト種は「ことば」で何かを伝えます。「ことば」というのは、長い文章であったり短い詩であったり、音声であったり、そこにメロディがついていたりするものの総称と思ってください。「言語」としてしまうと意図せず学術的な文脈が生じてしまう気がしたので、「ことば」です。

ただ、「ことば」を使うのが苦手な個体もいます。未成熟な幼体もそうですが、成体でも。普段そうでもない一方で、広く使われる「言語」の種類が異なる地域に滞在することで一時的にそうなることもあります。体の器官の構造が他の多数と異なるために、音声で即時に「ことば」を使うことが難しい人々もいます。


そうした場合、どのように伝えるか?


様々なパターンがあります。赤子は泣きます。発声が苦手な人や、言語の異なる相手と対峙した人は、表情筋や手の動作を巧みに使うでしょう。絵を描く人もいます。粘土をこねたり、彫刻をしたり、詞のない歌を作ったりする人もいます。ことばよりも、インパクトのある映像を作る方が得意な人もいるようです。暴力に訴えかける人も、います。

「ことば」であってもそうでなくても、伝えたい何かがあれば、相手のために"食べやすく"加工する必要があります。

加工する際に、余計なものがくっついたり、あるいは削りすぎてしまったりすることがあります。また、加工の技術がまだ未熟で、あるいはたまたま具合がよくなくて、うまく作れないときもあるでしょう。
そうしてできたものを、他の人が丸ごとおいしく食べられるかといったら、そうでもないというのは理解に難くありません。好みの味は違います。大きな口を開けられないから少しずつ切り刻む人、その量では全然満腹にならない人、苦手な食材だけよける人、色々な人がいます。鼻づまりで、味がうまくわからない日もあるかもしれません。

しかしながら、ヒトは「推論」を行うことができます。
この色はなんとなく辛い気がする。見た目がよくないから手をつけないでおこう。香りがいいからきっと好みだが、一人になったときにじっくり味わいたいから楽しみに待とう。
そんな感じで、各々勝手に補完していきます。



では、真実はどこにあるのか?


「実存は本質に先立つ」という一節があります。フランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトルが昔、自身の講演で話しました。少し噛み砕いて言うと、「本質なんてものは、結局のところ全部後付けにしかすぎない。あるものがすべてだ」といった感じでしょうか。
これはキリスト教や仏教など、「目に見えない確かなもの」の存在を肯定する、古来からの宗教観を揺らがすものでした。

そのサルトルの著書『嘔吐』の本が、映画『赤色彗星倶楽部』の物語中で、アイテムのひとつとして登場します。
ほんの少しのネタバレですが、ヒロインのハナが主人公のジュンから『嘔吐』の本を借りていて、ある日どこかのページに何かを書いた付箋紙を貼り付けるシーンがあり、そこから随分経ったあとジュンが付箋紙を見つける、という展開があります。
しかし、付箋紙に書かれたものを、観客が見ることはありません。文字なのか、図やイラストなのかも分かりません。ジュンが内容を読み上げるといったこともなく、次の展開に向かいます。
ひょっとしたら、次の展開からある程度の推論はできる人もいるかもしれませんが、確証はありません。

これをもどかしく感じる人もいるでしょう。私は真っ先に自分の母親を思い出しました。あの人は、あまり脳内で補完するとか想像するといったことはしないし、触れないでおこうと思ってそっとしておくこともなかなかない。

私は。
詳しく知りたいと思うことはいくらでもあります。でも、分からないままの方がいいな、と思うこともあります。


「誰かの本当には触れられない」とハナは終盤に言いました。

「そんな前向きになれないよ」
「じゃあ、横向きでいいよ」
「無理だよ」
「どうして?」

ジュンとハナの二人が向かい合って、エンドロールが始まります。



ところで、小説や劇などの物語作品に対して「チェーホフの銃」という技術、または法則が提唱されているのはご存知でしょうか。
一単語で二通りの見方ができるもので、「序盤に出てきた一見意味のなさそうな要素が、終盤になって意味を帯びる」と、その裏返しとして「劇中には、意味を持たない要素を含んではいけない」が言えます。主に後者の主張として、「発砲しないなら銃を出すな」と雑に使われたりもします。



あの付箋紙はチェーホフの銃だっただろうか?


『赤色彗星倶楽部』は82分の映画です。観客の中では、82分で世界が閉じます。
でもあの世界はどこかに存在しているのかもしれなくて、そうした場合まだ世界が続いているのでしょう。少なくとも、ジュンにとってあの付箋紙は意味のあるものだったと私は考えます。したがって、チェーホフの銃ではない。


いま生きている世界に、チェーホフの銃はあるのか。

伝えたいことがなくても、意味がないように見えても、存在しているなら理由はあると私は思いますし、逆に言うとそれらを隠すために存在を消そうとするのにも理由はあるはずです。
でも、何かの加工がなされた瞬間から、決して「本当には触れられない」ようになります。
ことばも、それ以外も。

こうして年が明けるのも、惑星の自転や公転の周期を元に「あると便利」だから暦が作られ、その結果として「年」という概念が発生しただけであって、地球の長い歴史の中では特に何の区切りでもありません。周期性、は存在しますが、1月1日が始まりといった決まりはありません。ヒトが生み出してヒトが消費する指標のひとつです。

そんな指標でしかないものにおめでたい意味を見出だしたくなるというのは、裏返せば、日々に意味がないのではないかという疑念を否定したいという気持ちの表れなのかもしれません。あ、このへんは、民俗学でハレとケとかの用語を使って語られる気がしますが、専門外なので……(言葉を濁す)

私は多弁を自覚していますし、それが寂しさに由来しているのではないかというほんのりとした想定もしています。こころ、自分でもよくわからない。愛情のセンサーもよくわからないし、何を伝えたいのかよくわからないまま樹脂やら粘土やら蝋やら針金やらをこねこねしています。

よくわからないけど、たぶん、愛。



実存主義はほどほどに、推論も想像も意味付けもほどほどに。

都合のよい楽観的なご利益だけを信じて、来年もやっていきたいですね。



2020年の私から、ここまで読んでくれたあなたに、確かな愛を込めて。

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