野村さんが亡くなって思うこと

ニュース等で皆さんご存知だとは思うが、2020年2月11日に野村克也さんが亡くなった。あまりにも突然で、それでいて覚悟があったかといえばできてもいた、そんなタイミングでの死だった。

野村さん…親しみと尊敬の念を込めてノムさんと書かせてもらうが、ヤクルトファンにとって本当に神様みたいな存在だった。ヤクルト黄金期を作った、本当に伝説だ。

でも、今振り返ってみると、実は自分は野村監督時代のヤクルトをはっきりとは覚えていなかったりする。振り返ってみると、一番昔のヤクルトの記憶は紺色のビジターユニで、打線にはペタジーニとラミレスが並んでいる、若松ヤクルトの時代。
それもそのはず、現在28歳の自分は野村監督最終年ではまだ7歳、記憶がなくても(そしてまだ野球にそこまで興味がなくても)おかしくはない。

それでも、僕はノムさんの監督時代を見てきた気がしていた。それほどまで、あの時代のスワローズのことは様々な媒体で見てきたし、大ファンである古田敦也さんとノムさんは切っても切れない関係にあるためそれだけ思いは強くなる。まさに刷り込みだ。しっかりと思い出してみなければ、ずっと野村ヤクルトをリアルタイムで見ていた気になってたかもしれない。

それくらい、僕の中でもノムさんの存在は大きかった。楽天監督時代のボヤキ集のCDを買ってよく聞いていたくらいに。

年齢的にも状況的にも、いつ亡くなってもおかしくはなかったのだが、それでもいつまでもあのボヤキが聞けると思ってた。思ってたのに…

本当に悲しい。

自分にとってのノムさんといえば監督であるが、選手としての野村克也はここであえて言う必要もないくらいの素晴らしい成績を残してきた。それなのに、今回のノムさんの死で語られるのは「野球に大きな革新をもたらしたこと」と「監督時代のこと」ばかり。これは、その大きな理由の1つとして”当時の南海(パ・リーグ)のプレー映像を見れた人が少なかった”ということはあると思う。
でも、それだけでなく、監督・解説者としての実績があまりにもすごく、いわゆる「野村チルドレン」がとても多いから、選手としての実績を語る余地がなくなっているというのもある。

今、球界に残る野村チルドレンの数は計り知れなく、球団の監督の半分(6人)はノムさんのもとでのプレー経験があるばかりでなく、侍ジャパン代表監督(稲葉監督)まで野村チルドレンだ。まさに、「人を残すを上とする」ノムさんのモットー通りの状況となっている。
ノムさんの死去に合わせて発表されたコメントの数からもその影響力は伝わってくる。同年代でしのぎを削ってきた王・長嶋から、直接の弟子ではないダルビッシュ、さらには多くの記者や野球界の外からまで本当に幅広い層からコメントが寄せられている。

…とまあ、ここまで書いてきたが、今更自分が書くまでもないなとか思えてくるわけで、それだけ世の中にはノムさんの追悼のコメントや生涯に言及した記事が今あふれている。
そもそもWikipediaだけで相当の読みごたえだし…これで通年ドラマ作れるくらいのボリュームだよ…なんなんだよこの人の人生…

ノムさんの死は本当に大きな損失だし、とにかく悲しくて仕方ない。でも今このタイミングで改めてノムさんの言葉や考え方を学びなおしてみたいと思う。幸いにしてノムさんの著書は世の中にあふれている。死してなお強い影響力を持つノムさんから影響を改めて受けてみようと思う。

最後に、昨年にスワローズOBでドリームゲームを開催し、そこで野村監督を見れたこと、感謝を伝えられたことを本当にうれしく思う。ここで見ることができていなかったら、今頃後悔の思いも強くあったのではないか…本当に、本当にこのような形でOBがノムさんを囲んでいる姿が見れてよかった。ノムさん、ありがとうございました。

どうか、沙知代さんと、そちらにおられる多くの野球人と、ぼやきつつヤクルトを、野球界を見守っていてください。


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