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【記憶の断片小説。】 みどり

今年第一号の台風がやってきて、温帯低気圧に変わるとなだれ込むように梅雨がやってきた。

今月はまだ青空をみてないなと思いながら、僕は自宅のソファに座り深夜番組のバラエティを観ている。

どんよりとした灰色の空、重く湿った空気、屋内では荷物になってしまう手を塞ぐ傘、部屋干しで篭った匂いのする洗濯物、湿気のおかげで時折おこる頭痛、どれをとっても気が滅入るような物事が充分すぎる程この時期にはある。

TVはバカ笑いを止めどなく放送し続けてるが、僕のテンションを救う力量はないみたいだ。

気泡のような溜息が、次々と天井に昇っていく。

こんな天気は嫌いだ。


『御免下さいな。』

掠れたしゃがれ声が聴こえた。

ベランダの方から、この部屋に向かって投げかけられる声。

『御免下さいな。ちょいと一時の傘を貸してくださいましな。』

ソファから立ち上がりベランダを覗くと、小さくて綺麗な緑色をした蜥蜴がいた。

濡れた躯はつやつや光り、大きな赤い眼でぱちくりと瞬きを繰り返す。

蜥蜴は首を傾げ、僕を見上げた。

『今晩は。』

「今晩は。」

『いやね、ちょっと道に迷ってしまって、あちこち歩き回ってもう脚が棒のようで。暫く脚を休めても?』

右へ左へ、首を傾げながら蜥蜴は僕に伺いをたてた。

「どうぞ、どうぞ。」

『有り難い有り難い、それでは失礼して。それにしてもよく降りますね。』

蜥蜴は結構お喋りなようで、近所のおばちゃんのように話し掛けてくる。

僕はそのまま隣に並ぶようにしゃがみ込んだ。

「そうですね、天気悪いですね。」

『まったく、まったく。素晴らしく天気が良い。』

「昼間は蒸し暑いですし。湿気が多くて嫌になります。」

『しとしとじめじめ、とても気持ちがいい。』

「・・・・・外出もしずらいですし。」

『曇ってどんより、最高のお散歩日和。』

「・・・・・。」

『雨に濡れて、肌もしっとり。喜びの歌も歌えそうな気分。』

お喋りな蜥蜴との会話は全く噛み合わなくて、僕は閉口してしまった。

暫く蜥蜴は雨について僕が思う事と全く正反対の事を、勝手に喋り続けた。

所詮、蜥蜴は蜥蜴。僕は人間。

生きる世界が違うから仕方がないか。

そう思いながら、時折適当に相槌を打つ。

そのうち蜥蜴はぷっつりと話す事を止めてしまった。

急に静かになった空気が僕に絡み付いてきて、落ち着かない。

悪い事をしてしまった後のように、もじもじと身じろぎをする。

アスファルトに打ち付けられる水音が、沈黙の間に広がってくる。

『見方なんだ。』

「・・・え?」

ふいに蜥蜴が喋り始めた。

『見方なんだ。どうみるか、なんだ。』

「・・・・・。」

『物事は変わりがなく、たったひとつ。たったひとつの物事。たったひとつの出来事。』

「たったひとつ。」

『そう。そのたったひとつをどうみるか。貴方と私というように。人間と蜥蜴というように。違った視点でみてみるんだ。』

『たったひとつの出来事は、同じことでも大違い。』

蜥蜴が帰ったあと、ぼんやりと先程の会話を頭の中で反芻していた僕は、取り敢えず蜥蜴になりきってみることにした。

キャンドルに火を灯し、部屋の照明を消すと夜と僕の部屋が繋がった。

外はまだ、止みそうにない霧雨が降り続いている。

そうして霞がかったベールに夜は包み込まれ、しっとりと冷やされた
空気が風となって、そっと額を撫でていく。

ぼんやりと光度を落とした灯りが部屋中を満たし、TVを消
したらBGMはごくごく小さな水音だけになった。

TVの音は賑やかで、それでいて騒音だ。

声という音に乗って感情が伝わってくるからだろうか。

喜怒哀楽、そういうものが自分の意に反して、波動となって作用する感じだ。

余計なものがないと、以外と落ち着くものだ。

こうしてみると、結構人間て動物的なんだなと思う。

高度な文明が溢れ、五感が麻痺してしまいそうな程便利なものに甘やかされてきていても、そういった微かなものは残っているらしい。

ふと、そんな研究者じみた事を考えてしまっている自分に可笑しくなって笑みを零す。

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