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三国志が終わるころ 『諸葛亮孔明 .2』


漢王朝の再興を国是に掲げる蜀(しょく)の戦いが幕を開ける時がきました。

諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)は練り上げた戦略を胸に進軍を開始します。

蜀軍はやがて中央への玄関口というべき漢中郡の地に至り、ここで孔明は諸将を招集して軍議を開きます。



孔明断を下す 蜀の命運を別つ一戦へ


打倒魏王朝への第一歩として孔明が示した戦略とは魏が領有する12の州のうち西のエリアの雍州(ようしゅう)の西部地域を奪取し、そこからさらに西に侵攻して魏領最西端の州涼州(りょうしゅう)を占有しようというものでした。

孔明の北伐の狙いをざっくりと

これが成功すれば魏は雍州の半分以西の支配域を失うことになり、孤立した涼州が蜀に攻め取られることになれば西方からも脅威を受けることになります。

涼州を得れば地理的にも軍事的にも経済的にも(涼州はシルクロードの通り道)メリットがあり、孔明は蜀のある益州(えきしゅう)と涼州の二方面から魏を攻略しようと考えていたのでしょう。

孔明の涼州進出はのちの北伐にも継続されることから、彼の基本戦略であったと考えられます。

この孔明の戦略に異義をとなえた武将がいます。
今では数少なくなった歴戦の武将魏延(ぎえん)です。

魏延は魏の西方の重要都市である長安を精兵五千の別動隊で奇襲する作戦を提案します。

魏延の視るところ長安を守っている将は凡庸な夏侯楙(かこうぼう、かつての魏の大将軍夏侯惇の次男)であり、攻める相手として恐るるに足らずといったところたでしょう。

難敵との衝突を避け攻め易い相手を倒し、なおかつ長安を得れば、孔明の案より広域に西を制することが出来る、これが魏延が描いた北伐の目標でした。

しかし孔明は魏延の作戦をリスキーだと判断しこれを退け、結果第一次北伐は孔明の企図そのままに作戦が展開されます。


蜀軍陽動作戦を展開す


孔明は漢中郡に集合していた蜀軍を二つの軍に編成します。

まず歴戦の勇将趙雲(ちょううん)を主将とした部隊には漢中から北進して侵攻すると喧伝させ魏軍を引き付ける役目を与えます。

この部隊はあくまで魏軍を引き付けておく囮の役割であり、決戦用の部隊ではないため戦力としてはそれほど優れていません。

次に孔明自身が率いる主力軍は趙雲軍とは別方向の北西に侵攻して雍州の西部地域を制圧し、魏と涼州の分断を目指します。

北西に進出した主力軍からさらに軍を割いて、馬謖(ばしょく)を主将とした部隊を街亭(がいてい)という地に留まらせ、西進してくるであろう魏軍を防ぎ止める任を与えます。

北伐の進軍ルートをざっくりと

馬謖の一軍の主将への抜擢はまさにサプライズ人事であったでしょう。

馬謖には実戦の経験がほとんど無く、逆に漢中太守の経歴を持つ魏延は漢中以北の地理に明るい事情があるだけに諸将は魏延が選ばれると考えていたからです。

ともあれ北伐は開始されました。

西を行く主力軍は難なく侵攻し馬謖は街亭に、孔明は岐山(きざん)という地を攻めに駒を進めます。

一方囮役を任された趙雲はゆっくりと北進して魏軍がやってくるのを待ちます。


さてここで、守る側の魏軍に目を転じてみましょう。

魏では蜀軍が漢中に進出してきていることから、北進して雍州中央に侵攻してくるのではないかと危惧していましたが、その後蜀軍に動きがないため狙いを計りかねていました。

そこに蜀軍が嵋(び)という地域を攻めるために進軍している、という情報が入ってきました。

この進軍している軍とは囮役の趙雲軍のことです。

魏軍はこれを迎撃するために曹真(そうしん)率いる軍を南下させます。

しかしこの間に蜀の別の軍がはるか西の岐山あに進出していることが判明します。

魏軍は雍州西域を防衛するために張郃(ちょうこう)軍が西へ向かいました。

ここまでは孔明が意図したとおりに戦局が動いているといっていいでしょう。

孔明軍の進出に応じて涼州の三群(天水、南安、安定)が蜀側に寝返るなど蜀軍にとって有利な状況に展開していました。

しかし順調にみえた孔明の作戦も次第に破綻をきたしはじめます。


街亭の戦い 


趙雲軍を討つために出陣した曹真は敵の動きが鈍いことをいぶかり、陽動のための進軍であろうと見切りをつけます。

これには趙雲軍に情報漏洩があったのではないか、という説もあります。

敵はさほど強い戦力を持っていないと考えた曹真は精鋭部隊を編成し趙雲軍を急襲します。

兵数においては曹真を上回る趙雲でしたが戦闘が開始されると精強な相手に苦戦を強いられ、結果敗退してしまいました。

一方蜀の主力軍を追って西へ進んだ張郃軍は街亭で待ちうけていた馬謖軍と対峙します。

そこで張郃は馬謖軍の異様な布陣に直面しました。

馬謖軍は一部の部隊を除いて全軍が南山という山に登って布陣していたのです。

「高所に依って低所の敵を攻めれば勝つ」というのは『孫子(そんし)』にある戦術の一つであります。

近づいてくる張郃の大軍(あるいは想定以上の)を察知した馬謖は高所に陣取って地の利を得ようと考え、副将の王平の諫止も聴かず孫子の教えを実直に実行したのでした。

しかしここには大きな落とし穴が潜んでいました。
山頂に水源がなかったのです。

戦地を偵察させた張郃はこの欠点を見抜き、馬謖が籠る山を四方から包囲して水の補給路を断ち、干し殺しにする構えを見せます。

水の補給を断たれ包囲された馬謖軍は重大な事態に直面して混乱しはじめます。

敵に乱れが生じたと見てとった張コウは山に籠る馬謖軍に攻勢をしかけました。

水源の確保に慌てふためいているところに張郃軍から攻めたてられ、応戦の指揮をとる馬謖の指示が複雑でちょっと何言ってるかわからないというワーワー状態に陥った馬謖軍は、ついには四分五裂に潰走してしまいました。


このとき岐山を攻めていた孔明は、馬謖・趙雲の両軍が敗退したことを知り孤軍で戦いを継続するのは不可能と判断し漢中に撤退しました。


無念にも大敗を喫してしまった蜀軍ですが、孔明の北伐にかける意志がゆらぐことはありません。

次回も引き続き諸葛亮孔明の戦いの軌跡をお送りします。

ここまでお読みいただきありがとうございます😊

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