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今楊貴妃と呼ばれた戦国武将の妻   荒木だし

こんにちは。 まさざね君です。

今回ですが、戦国時代の気になった女性『荒木だし』について、ちょっと 調べてみたので報告したいと思います。

私が戦国を生きた女性[荒木だし]を知るキッカケになったのは、
NHK大河ドラマの『軍師 官兵衛』です。

それは、こんなシーンだったと思います。

織田信長に突然反旗を翻した荒木村重のもとに、親交のあった黒田官兵衛が
仲介役として説得に訪れますが、有無をいわさず捉えられて土牢に幽閉され
てしまいます。

その土牢の中で地獄のような生活を送っていた黒田官兵衛に献身的に
接してくれたのが、荒木だしだったのです。


ということで、荒木だしについてもっと知りたくなり色々調べてみました。
検索で最初に出たのは「今楊貴妃」「絶世の美女」というワードでした。

ますます、気になっちゃいましたぁ。(笑)

これについては、幾つかの文献にも残っていて、
『信長公記』では、だしと申すは聞こえ有る美人なり
        (だしとは有名な美人である。)

『立入左京亮入道隆左記』では、
一段美人にて、い名は今楊貴妃と名づけ申候
(一段と美人で、楊貴妃の再来と呼ばれた。)
と書かれています。


荒木だしの美人画なども残っていないか調べましたが、残念ながら見つける
ことは出来ませんした。

【出自について】
荒木だしは、誰の娘で、どこで育ったんだろうということで、早速検索して
みましたが、、。

これに関する情報がほとんど無く、ハッキリとしたのが見つけられません。
実名においても同様で、色んな説があって謎が深まるばかりでした。

ただ、名の知れた戦国武将でさえ、そういうことがあるのでショウガナイ
ですね。(笑)
とりあえず、分かった範囲内で、、お伝えします。


まずは、実名からです。
[だし]という名前は、本名ではありません。
この名前は、お城の正面玄関である大手門の先にある[だし](出丸)に
住んでいたので、だしと呼ばれていたという説があり、これは文献にも
残っていました。

だし(出丸)とは、城の本丸などの重要地点を守るため、本丸の外に
突き出た場所を指すんですね。


何でそんな名前を付けたのかというと、
この時代の高貴な女性は、実名をあまり表には出さなかったらしいです。

なので、大名の奥さんの場合は、
城内に住んでいる場所にちなみ、敬意を込めて「○○殿」と呼んでいま
した。

例を挙げると、豊臣秀吉の側室となった[茶々]は、淀城に住んでいた
ので「淀殿」と呼ばれていました。


では、実名は何て名前だったのでしょう?

色々調べてみると[ちよほ]という説が出て来たので、婚姻前の名前ということにしておきます。
ここに辿り着くのもけっこう困難でしたぁ(笑)


出自についても諸説ありますが、代表的なものを2つ挙げたいと思います。
1つは、石山本願寺に仕えた川那部氏の娘という説

もう1つは、織田信長の側室・生駒吉乃(いこまきつの)の娘説

以上の2説があり、だし(ちよほ)は1558年に生まれます。

出自については、生駒吉乃も凄い美人と言われていたので、コチラの説で
進めようと思います。
(実は、川那部氏に関する情報は、皆無に近かったんです。涙)


まずは、生駒吉乃とは、どのような女性だったかですね。

生駒吉乃は、織田信長の側室で信長に最も愛された女性だと言われています。
信長との間には、3人の子供(信忠、信雄、徳姫)がいました。

だし(ちよほ)は、信長の娘だよね?!ということになりますが、信長の
実の娘ではありません。
生駒吉乃の最初の夫・土田弥平次との間に生まれた子になります。

生駒吉乃の長男・信忠は、信長と正室の濃姫(帰蝶)との間に子がなかった
ので、2人の養子となり織田家の跡取り候補となりました。

それにより、吉乃の立場は正室に近い扱いとなったのです。

そんな吉乃ですが、3人目の徳姫を産んだ後、肥立ちが悪く、回復する
ことなく39歳で亡くなりました。


だし(ちよほ)が、幼少時代、少女時代をどのように過ごしていたかの
資料は色々探してみましたが見つけることは出来ませんでした。 

残念です!!


【荒木村重が「だし」を娶る】
荒木村重は、だしを継室として迎え入れます。

多分、織田信長が荒木村重と関係を強くするために、だし「ちよほ」を嫁にするように薦めたのかもしれません。
(いわゆる政略結婚ですね。)

ココに出てくる継室とは、正室の死別、離婚を受けての当主の再婚により
迎えられた後妻のことを指します。

ならば、荒木村重の正室は?となりますが、
村重は摂津池田城主の池田長正に仕えていたときに長政の娘を娶とり
池田の一族衆となっていますので、その女性が正室と思われます。

そして、この二人の間に出来た息子(嫡子)の村次が明智光秀の娘・倫
(さと)を嫁に迎えます。


このことからも村次は、だしと同じ年齢もしくは年上となるので、
だしが正室だったというのは厳しいですね。
それに、村重とだしは、年齢が20歳以上離れていたんですよ。


2人の結婚生活はというと、だしは村重のことを凄く立てていたので
夫婦仲も良く、2人の間には子供も生まれています。
だしは、所体やしぐさなど内面的なところも含めて美しい人だったので、
村重もメロメロだったかもしれませんね。

うらやましい限りです!

でも、そんな幸せは村重の突然の行動により、長くは続きませんでした。


【信長への裏切りで生活が激変】
1578年に村重が、主君の信長に対して突然謀反(裏切り)を
起こすのです。

この時の村重は、信長家臣の中でも出世頭の一人で、摂津国37万石を
ようする戦国大名になって人生の絶頂期とも言えたのに。

それが、謀反を起こしたものだから信長もビックリ!
なぜ村重が謀反を起こしたのかについては、これといった明らかな理由は
分かっていません。

信長は、畿内統一の立役者である荒木村重にチャンスを与えるため、
明智光秀を使者として派遣して安土城に来て謝罪するように説得しました。

それを受け入れた村重は、家臣(中山清秀)らと向かいますが、
中山清秀に「殿!! 信長の性格を考えたら、安土城に行けば全員殺される
に違いありません! だから行くのを止めましょう!」

と何度も説得され、とうとう有岡城(自分のお城)に戻ってしまうのです。

それを知った信長は、今度は黒田官兵衛を使者として送り説得を試みまが、
村重は官兵衛の説得を拒否するだけでなく土牢(劣悪な環境の牢屋)に幽閉
してしまいます。

さすがに怒った信長は、大軍を率いて村重の居る有岡城を包囲してしまうのです。


籠城戦で信長軍を迎え撃つと決めた村重は、
村重の息子(嫡子)・村次と結婚していた明智光秀の娘(倫)を人質に
したり殺すこともなく、村次と離縁させ明智光秀のもとに返しています。


さて、土牢に幽閉された黒田官兵衛ですが、そこは1日中薄暗くて狭く、
湿気の高くジメジメした劣悪の環境だったらしいです。

そんな環境状態での監禁生活は約1年に及びました。
救出時の官兵衛はヒゲが伸び放題で、頬が異常にコケて皮膚病を患って
いたらしいです。

その後、療養生活を送りますが、左足の関節障害、皮膚病による頭部の
ただれなど重い後遺症が残ってしまいました。


そんな劣悪な環境で幽閉されていた官兵衛のところへ度々訪れて献身的に
接してくれたのが、[だし]でした。
[だし]は、官兵衛とは夫婦で親交のあっただけに不憫でならなかったので
しょう。

そして、官兵衛にとって、だしの訪問は生きる気力を与えてくれていたのだ
と思います。


ただ、だしが官兵衛のところに度々訪れていたというのは、本当かどうか
分かっていません。

ドラマ的には良い話ですけどね、、、。


【荒木村重の脱出】
荒木村重の籠城戦は、緒戦こそ信長の大軍相手に奇襲を仕掛けるなど奮闘
していましたが、長期になるにつれて戦線は膠着状態となってきました。

そうなってくると籠城している荒木軍が不利になってきます。

籠城戦とは、そもそも援軍が来るまでの時間稼ぎで、援軍と共に城を包囲
している敵を挟み撃ちして撤退させるか、そのまま戦に持ち込むのが常套
手段なんです。


しかし、いくら待っても毛利の援軍が現れず、側近の中山清秀と高山右近が
続けざまに信長へ寝返ってしまい荒木軍の士気は一気に落ちてしまいます。

また、外からの食糧調達も絶たれ、城内の食糧も尽きかけてきました。

さすがに村重もジリジリと追い詰められて後がなくなってきたのです。


そこで、村重は驚くべき行動に出ます!

籠城から8か月後(1579年9月2日)の夜中に数人の家臣を連れて、
ひそかに有岡城を脱出してしまいます。

それは、だし、子供、多くの家臣を残したままの脱出でした。

この行動が、後になって城の主が妻子、家臣を見捨てて自分だけが逃亡した
として、荒木村重の代表的な悪評の1つになってしまいます。


これにも色んな説がありますが、
私は、毛利の援軍の交渉に村重が直接行く事で説得力が増すと思って城を
出たのではないかと考えます。
また、これも想像になりますが脱出前日に夫婦で話し合い、[だし]は
村重を信頼し納得して送り出したのではないでしょうか。


個人的には、そうであって欲しいと思っています。


【逃げた代償】
村重の脱出後、城の守りを任されていた荒木久左衛門は、
1579年11月19日に織田軍に対して降伏開城します。

降伏の理由は、これ以上戦うことが困難を極めていたのと信長から最後
通告とも取れる講和の呼びかけがあったからでした。

荒木久左衛門は、その講和条件を村重に伝えるために村重の逃亡先の
尼崎城に向かいます。

講和条件は
『荒木村重が城を明け渡すなら家臣と妻子の命は助ける。』
というものでした。

ところが、村重はこの条件も拒否してしまいます。

説得に失敗した荒木久左衛門は、このまま信長の元に戻っても命がないと
思ったのか、そのまま逃げて行方をくらましてしまったのです。


この報告を聞いた織田信長は、
「村重だけでなく家臣も節操がないわ! 武士の恥さらしがー!」
と怒り、見せしめとして人質全員の処刑を命じます。

これにより、人質となっていた荒木一族と家臣の妻子たちに
最大の悲劇が訪れるのでした。


【気高き女の最期】
有岡城の人質全員に処刑命令が出されたことにより、処刑が速やかに
開始されます。

まずは、だしを含めた荒木一族と重臣の36名は処刑に向けて京都の
妙顕寺に移送されました。

城内に残っていた122名の家臣の妻子は、荒木村重への見せしめ
として、12月13日に尼崎城近くの七つ松に護送されました。
そこには97本の磔柱が建てられ、死の晴着をつけて磔後、鉄砲や長刀で
殺害されます。

下級武士やそれ以外の人質衆の512名は、4軒の農家に押し込められ、
生きたまま火を放たれて殺されたのです。
その状況は、悲惨を極め、断末魔のような悲鳴や鳴き声など遠くまで
聞こえたとのことです

大量処刑から3日後の12月16日、だしを含めた荒木一族と重臣の
36名も六条河原で公開処刑となりました。

この処刑で命を落とした人数は670名(女・子供・妊婦なども含む)に
のぼり、多くの人に衝撃的な印象を与える事となるのです。

当時の処刑は、一種のデモンストレーションの意味を持っていたので、
多くの見物人が処刑場に居合わせてたのです。

この様子について、
「かやう恐ろしきご成敗は、仏の御代より日より此方のはじめ也」
『立入左京亮入道隆左記』に記されており、
いかに凄惨な光景だったかが伺えます。


また、処刑前の「だし」の立ち振る舞いが話題となり、宣教師ルイス・
フロイスの『日本史』『信長公記』などにも、その様子が記されています。

『日本史』では、
「荒木村重の妻は、天性の美貌と貞淑士の持ち主で、顔に大いなる安らぎを
示していたが、車から降りる前、乱れた髪を結びなおし、腰帯をしめ幾重
にも重ねた高価な衣装をまとった」

『信長公記』では、
「護送の車より降りた後、帯を締め直し、髪を高く結び直し、小袖の襟を
開いて従容の首を差し出した」
と記されています。


内容をまとめると、
だし達は、妙顕寺から大八車に乗せられ市中引き回されたのち処刑場の六条河原に向かいます。

その時の彼女は、白の死装束の上に艶やかな小袖で羽織っており、処刑場までの市中引き回しでは、見る者を引き付けました。

降車後、だしは取り乱すこともなく、武将の妻らしい毅然とした態度と気高き女性として死に臨んだのでした。

この立ち振る舞いに関しての解釈は色々ありますが、私は、
「だし」が多くの人に自分の姿を見てもらうことで、荒木村重に対する愛
(信頼・絆)と大量処刑への抵抗を示したものではないかと考えます。


刑場の露と消えた「だし」の年齢は『信長公記』で21歳、
『立入左京亮入道隆左記』23歳と記されています。


荒木だし」について色々調べてみましたが、
短い人生だったが、容姿だけでなく内面も美しく、強い信念を持った女性
だったんだなというのが「だし」の印象でした。

戦国武将の妻は、嫁いだ先によって人生が大きく変わります。
妻として、母として、時には戦の時は夫の代わりとして城を守り武将に
負けないくらい強くなくては生きて行けなかったのだと改めて感じました。

「荒木だし」は、世にもあまり知られていませんし、文献などの資料も
ほとんど無かったので、色々組み合わせながら書いてみました。

もし、今後「荒木だし」に関する資料などが新たに発見されれば、更に色んな事が分かってくると思うので楽しみにしたいと思います。


ここまでお付き合い頂きありがとうございました!

最後に、「だし」の息子は乳母の機転により脱出できたと言われています。
後に、江戸時代の代表的な絵師の岩佐又兵衛として活躍しました。
代表作品には、国宝の「洛中洛外図屏風」があり、浮世絵の開祖とも言われてます。


では、また~。

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