荒木村重

茶人・道糞として生き続けた戦国武将

戦国時代に最も活躍した戦国武将といったら?

こんばんは。 まさざね君です!

このニックネームは、九戸政実の大ファンだから付けたという      単純なものです。(笑)

これを書いた目的は、歴史(戦国時代)に興味があるけど難しくて    わからない。                            ゲームなどでこの時代に興味を持ったけど、その人が何をしていたか   分からないなどの人に向けて情報発信できたらと思っていますので、   よろしくお願いします。

さて、質問に戻りまして、多分真っ先に出てくる戦国武将は、
ミスター戦国武将こと、『織田信長』でなないでしょうか。


戦国ゲーム「信長の野望」のタイトルにもなってますからね。

この織田信長の性格を表す有名な言葉に                                                      「泣かぬなら殺してしまえホトトギス」というのがあります。


信長と言えば、冷酷無比、短気で激しい気性などのイメージが強いんで、
上の例えがピッタリとハマりますが、
実は、そうでないという説も色々あります。

いったい真実は、どっちなんでしょう?!

学校の歴史で習った
●●の乱、〇〇の戦いなどは実際に起こった事で、建物や多くの史実などが残っていれば、勝手に末梢するのは難しいですよね。
でも、
歴史操作で怖いのは、その時の権力者(勝者)によって、自分たちに
都合がいいように内容を操作されて、それが後々まで伝わってしまう
ということです。

「事実(点)は変えられないが、線(内容)は伝える側次第で変えられる」

という事です。

その典型を挙げるとすれば、

2020年 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主役である
『明智光秀』ではないでしょうか。

以前だったら多くの人が
明智光秀と聞いて、どんなことをイメージするでしょう?


本能寺の変、信長を殺した人、裏切り者、三日天下などの
悪いイメージが多かったと思います。

それが、なんと!
NHK大河ドラマの主役に抜擢されてしまったんですね!

上杉謙信、武田信玄、伊達正宗などの有名な戦国武将なら
何の驚きもありませんが、、


まさか明智光秀が主役になるなんて
10年前、20年前だったら絶対に考えられませんでしたね。


この放送により、明智光秀の人物像が多くの人に見直され、
今後の印象は大きく変わるものと思われることを期待して、毎週楽しみに 観たいと思います。(^^)

織田信長の家臣で、
主君を突然裏切った戦国武将と言えば「明智光秀』ですが、
実は、他にも主君(信長)裏切った戦国武将達がいたんです。


その戦国武将というのが、明智光秀とは比較にならないほど
「型破り」で「数奇な運命」を辿るのです。

それを代表するのが、
『荒木村重』と『松永久秀』です。

この2人は、「麒麟がくる」にも登場してきますので、
是非チェックしてみて下さい。

今回は、その中の1人

荒木村重について書きたいと思います。


では、はじまり~!!

~茶人・道糞として生き続けた戦国武将~

      『荒木 村重』


荒木村重は、摂津(大阪の北側)で荒木義村の嫡男として生まれました。

そして元服後、荒木村重は、摂津の大名であった池田家の家臣として親と 同様に仕えます。

この頃の摂津諸大名は、                       三好三人衆と争っていたので、池田家家臣だった荒木村重もそれに従って 戦いに明け暮れてました。

さて、池田家の内政はどんな感じだったか目を向けてみると、この時代の ご多分に漏れず家督争いの真只中にありました。

ただ、荒木村重は、これを上手く利用して家督争いによる粛清、調略を繰り返すことで、池田家を弱体化させ、やがて主君追放して実権を握っていくのです。(内政の混乱に紛れてなかなかのやり手です。)

荒木村重が実権を握るまでの過程は、けっこう複雑な内容だったので、省略させてもらって、簡単にまとめると以下のような感じですかね。(汗)

自分が都合よく動けるように、次々と主君を裏切って追放したり、
敵対関係だった三好三人衆とも手を組んだり、離反したりの繰り返しで  ドロドロした下剋上の典型みたいなものでした。

内容をだいぶ省略しましたが、池田家の実権を握るまでに至ったのが、荒木村重にとっての最初の下剋上となりました。

実権を握ったと言っても摂津国の一大名にしか過ぎなかったので、力をつけてきた荒木村重は、更なる飛躍を試みます。              それは、今一番勢いのある大物に謁見することでした。 

この大物との謁見に成功することで、荒木村重の運命は大きく変わっていくこととなります。

その大物とは?!   そうなんです!
あの『織田信長』です!!

この頃、
織田信長は将軍となる足利義昭と一緒に念願であった上洛を果たします。

これは、ただ単に足利義昭と一緒に京都に行ったというこではなく、
非常に重要な意味を持ったものだったのです。

信長が軍勢を率いて上洛することは京の安泰だけではなく、しいては政情の安定に繋がる意味合いを持っていました。

信長の本当の目的は、荒れ果てた京を軍事占領することで天皇を自分の保護下に置く、信長が足利義昭を正式に将軍に就任させることで、絶対的権力を持ってる自分が天下を治めるということを内外にアピールするということでした。

将軍・足利義昭は、信長が機内を支配していくための踏み台もしくは
カタチだけの将軍、俗に言う傀儡将軍(かいらいしょうぐん)だったので、義昭のプライド(将軍であり名門なんだぞ!)はボロボロに傷ついて、、、とうとう不満が爆発します。


当然と言えば、当然ですが、2人の仲は険悪状態となっていくのです。
ただし、信長は、将軍・義昭など相手にしていませんでした。

脱線したので、話しを荒木村重に戻しますね。

信長の上洛を知った荒木村重は、信長の家臣だった細川藤孝のアドバイス などから信長の凄さを知り、さっそく信長に謁見する機会をもうけます。(この時、荒木村重は、三好家と同盟を結んでましたが、三好家で家督争いが起きていて以前の勢いが無くなったこともあり見限ってしまいます。)

荒木村重は信長と謁見し、家臣として受け入れてもらいましたが、それは お互いにとって都合のよい条件が揃っていたのが大きな理由でした。

織田信長にとっての利点は、畿内を支配する上で摂津は重要な      拠点となる。                            荒木村重にとっての利点は、信長の家臣になることで今の領土安泰と   活躍次第によっては今より勢力を拡大できる。

このように、お互いにとって好条件が揃ってたんですね。

村重が信長の家臣になってから後世まで語り継がれる有名なエピソードがあるので、紹介します。
それは、こんな話です。
~刀と饅頭と私~

ある宴席で信長は突如、刀で近くにあった饅頭をグサッと突き刺し、
村重の眼の前に突き出します。

突然の事だったので周囲が騒然とする中、村重は全く動じることなく
刀に突き刺さった饅頭にかじりついて平らげてしまいます。

そして、饅頭で汚れた信長の刀を自分の着物の袖で拭き取ったのです。

信長は、この予想外の勇気ある行動にいたく感心して、村重を厚遇する
こととなるのでした。

やがて、この逸話は時代を越えて江戸時代に人気を博します。

江戸後期の読本『絵本太閤記』や『錦絵』に描かれたことで
江戸庶民の心をグッと捉えたのです。

なんか、歌舞伎などで再現されている様子が思い浮かびます。
実際に演じられたかわかりませんが、、笑


信長の家臣として新たな出発をした荒木村重は、武功を挙げて出世街道を
つき進んでゆくのです。

代表的な功績をあげると、織田信長が足利義昭討伐に動いた際、三好義継との「若江城の戦い』で村重は戦功を挙げます。             続いて、伊丹城主の伊丹親興を攻略して摂津を平定(1つの国にまとめる)することになります。

これにより、荒木村重は摂津国37万石を治める戦国大名となり、明智光秀や羽柴秀吉とも肩を並べる存在となりました。

新たな伊丹城主となった荒木村重は、城の大改修で城下町全体を要塞化したことで、相手が攻めにくく脅威となる城を造り上げました。       そして、城の名前を伊丹城から有岡城へと改めました。

この有岡城ですが、宣教師のルイス・フロイスが「壮大にして見事な城」
と伝えてますが、残念ながら現在その遺構はほとんど残ってません。

ココまでの荒木村重をみると、下剋上を行って摂津国の一部を治める主と なり、信長の家臣となってからも戦功を挙げて一国一城の主までに登り  詰めた出世物語として終了となるのですが、、、
これで終わらないのが『荒木村重』です。

~信長への突然の裏切り~                      荒木村重は、摂津国国主(戦国大名)となった後も石山合戦、紀州征伐などにも参戦して一定の成果を出していくのですが、

なんと!! このあと自分を召し抱え、厚遇してくれた
『織田信長』に対して謀反(裏切り)を起こしたのです!

なぜ、荒木村重は織田信長に謀反を起こした理由が気になりますが、   これといった明確なものがなく様々な説があるようです。
1.毛利家、石山本願寺、足利義昭にそそのかされた。

2.村重の家臣 中山清秀が内緒で石山本願寺にコメを送ってたのが、
  信長にバレてしまうのを恐れた。

3.皆の前で刀の先に刺した饅頭を食べさせられたことを根に持っていた。

4.信長が村重に活躍の場を与えなくなってしまった。
  *成果を挙げないと改易されてしまう危険性がある。

個人的には、2が一番真実に近いのかな~と勝手に解釈してます。

突然、荒木村重が謀反を起こしたと聞いた織田信長は、
それを直ぐに信じることができなかったらしいです。          確かに理由がハッキリしてないのであれば当然ですね。

ただ、裏切りに対しては信長の性格を考えれば            「この裏切り者めが!!」とブチ切れて大軍を送り込むのかと思いきや、、

今までの活躍もあるので穏便に済まそうと、明智光秀を派遣して
「村重の母親を人質として差し出し、信長への謝罪に安土までくるように」
と伝えたのです。

この申し出に応じた荒木村重は、釈明のために家臣の中山清秀を伴い安土城に向かいますが、、、

途中、中山清秀が
「殿!! 信長は、一度裏切った家臣を許すはずがないです!
 信長のもとに行けば必ず首を撥ねられてしまいますぞ!」

「殿! ここは引き返して、毛利や石山本願寺と協力して        信長と戦いましょうぞ!」

と村重に繰り返し説得して、村重が安土城に行くのを引き留めます。

すると村重は、悩んだあげく有岡城に戻り籠城の準備をしてしまうんです。

そして、毛利氏へ使者を送って共闘する意思を伝えたのです。

*この時の中山清秀は、主の命を守りたいというよりは、してやったりと 思ったのかもしれません。 (個人的になんか胡散臭く感じるんですよね)

なぜ、そう思ったかは、籠城してからの中山清秀の行動からでした。


これを知った信長は、荒木村重の籠る有岡城に攻める思いきや、
今度は、村重と親交のあった黒田官兵衛を有岡城に派遣してきたのです。

信長は、この段階でも謀反を起こす理由が分からず、有能な村重を信じたいと思ったのかもしれません。

信長にとって、勢力拡大の課題であった摂津を平定した村重は、
最大の功労者であり信頼もしていたのです。

それだけ信頼が厚い荒木村重の魅力って、刀に刺した饅頭を平然と食べた という逸話があるくらいなので、他にも相手を引き付ける何かを持っていたのではと思ってしまいます。

もしくは、この後登場する荒木村重の妻(だし)が信長が最も愛した女性(側室)の生駒吉乃の娘だったのが絡んでいたのか、、         ん~謎ですね。

荒木村重は、信長の使者として来た黒田官兵衛の説得を拒否するだけでなく、土牢に官兵衛を監禁してしまうのです。              後に有岡城が開城となり、黒田官兵衛は救出されますが、この監禁生活に よって足に重度の後遺症が残ることとなります。

黒田官兵衛の監禁生活でのエピソードで、
村重の妻の『だし』が不憫に思い度々訪れては、献身的に接していたらしいと言われてます。

ここからは、私の勝手な妄想を書いちゃいます。
官兵衛の説得を全く聞き入れず、殺めてしまうのではなく土牢に監禁したのかというのに疑問が残りました。(一説では、官兵衛のかつての主君であった小寺政職が憎っくき官兵衛を始末しちゃってと事前連絡していたともいわれますが、、)

黒田官兵衛は、凄く頭が切れ、策士としても優れた人でした。      また官兵衛は、軍師として後ろに控えるよりも自分の才能を前面に出して くるタイプでもありました。

荒木村重は、黒田官兵衛とは親交を深めていたものの、どこかで官兵衛が 天下を狙っているようにも感じていたのかもしれません。        そして、官兵衛と会ったときに陰謀的なものに気付き 劣悪な環境の土牢に監禁して何とか陰謀を聞き出そうとした。               ところが、官兵衛は頑として口を割らなかったみたいな。        スミマセン、これは勝手な想像なので、スルーしてください。 (笑)

話を戻して、
とうとうこれには、信長も激怒してしまい、大軍を有岡城に送ることとなります。

ここから約1年におよぶ有岡城での籠城戦が始まります。

有岡城は、村重が城を大改修して町全体が要塞化したお城だったので、
備蓄していた食料以外にも、ある程度食糧を確保できたのと、ときどき  荒木軍が包囲網に向かって善戦したこともあったので、長い期間籠城   できました。

しかし、長い籠城で荒木村重のもとでは以下のような事が起こり、苦境に立たされていました。

1つは、
村重の側近(家臣)の中山清秀、高山右近が調略によって信長に寝返ってしまいました。

まさか、まさかの中山清秀の寝返りです!               

(先ほどの、私の勝手な陰謀説は忘れてもらって)
荒木村重にしてみれば、
「中山清秀!! お前がコメを石山本願寺に隠れて送ったりするからだろ!それに、安土城へ釈明に行く途中信長は一度裏切ったら許さないですよ! って、しつこく言ったのお前だろか!!!」
ってなりますよね。

このあと、中山清秀の裏切りから間もなく、高山右近も有岡城を脱出して 寝返ってしまいます。                        村重にとって側近である2人が裏切ったことは大きな痛手となっただけ  でなく、残る家臣たちの士気が下がる原因ともなっていきます。

2つめは、厳しい食糧事情でした。                  有岡城周囲は、織田の大軍で包囲されてるため、城外からの食糧確保ができませんでした。有岡城は、要塞化された城だったので多少の作物は確保できましたが城内全員の食糧確保が次第に困難となり、備蓄していた兵糧も尽きはじめてました。 

3つめは、援軍が来なくて孤立状態だったことです。          籠城の間、毛利からの援軍を待っていたが全く来る気配がなく、城内の士気も落ちるばかりでした。                       ただ、援軍が来なかった理由として、毛利水軍は第2次木津川口の戦いで 織田水軍に殲滅されてたのです。

これらの理由で、荒木村重は、家族(一族含む)家臣を残したまま
有岡城を僅かな供を連れて脱出してしまいます。

一般的に考えれば、
城主として、家臣や家族を残して逃げるなどありえないことです。

城主と言えば、降伏条件として自分の命を引き換えに家族、家臣等の
命の補償をとなりますすが、、

これについても、家族を捨てて逃げた、自ら毛利に援軍をお願いに行った など諸説あります。

やがて、城主のいない有岡城は落城してしまい、村重の家族、家臣などが 囚われの身となってしまいます。

村重はというと、村次(嫡男)の居る尼崎城に落ち延びます。

そこで、信長は、村重に尼崎城と築城中の花隈城を明け渡せば、
有岡城と家族、一族等を助けるとの約束を伝えますが、
これも拒否してしまいます。


さすがの信長も、ここまで顔に泥を塗られたとあっては怒りも収まらず、
さらに激昂してしまうのです。

そして、村重の妻『だし』、子供、一族は見せしめとして公開処刑と   なってしまうのです。

その数は、「信長公記」によると女房衆122人、一族及び重臣36人、
他にも避難した家族についても見つけ次第皆殺しにした記されてます。

他に下級武士とその妻子500人以上が農家に閉じ込められ生きたまま  焼き殺されたらしく、その情景は凄惨を極めたものとなったようです。

これらから、どれだけ織田信長が荒木村重に対して怒りを覚えたのかが  伺えます。

ここにも出て来た村重の妻『だし』ですが、              この人もかなり魅力的な女性で、これだけでもスピンオフとして物語が作れ
そうな感じなんです。

この『荒木だし』について簡単に紹介すると
・村重の正室か側室かは不明。

・村重は妻を大切にしており夫婦仲は良かったようです。       

・出生も石山本願寺に仕えてた川那部氏の娘、信長の側室(生駒吉乃:美女として有名)の娘など様々な説あり。

・絶世の美女と言われている。
 「今楊貴妃」「一段美人:最上級の美女」など文献に記載あり。

・処刑上に到着した際、美貌と貞淑さを持ち、大いなる安らぎなる顔で移送されてきた大八車から降り、乱れた髪を結び直して、幾重にも重ねた高価な衣装を身に纏っていたとされてます。

*荒木村重が家族、家臣を捨てて有岡城を脱出してたら、        「アンタ(村重)のせいで、こんなことになったんだからね!      呪ってやる!!」となるのでしょうが、
処刑される前の振る舞いからは、恨みというよりは気高いというか   神々しさのある女性のように思えます。

辞世の句には
 「木末よりあだに散りにし桜花 
         さかりもなくて嵐こそ吹け」 他多数あり

さて、最後通告となった信長からの申し入れも断った村重ですが、
どうしたかというと、自分の家臣の居る花隈城へ逃げ、毛利氏を
頼って広島の尾道へ身を隠したのです。

その後、しばらく毛利氏の庇護のもと尾道で隠遁生活(いんとんせいかつ)を送っていたのです。

そして、村重は頭を丸めて、名前を『道糞』と改めます。        書いて字のごとく、『道』に落ちてる『糞』です。

この名前には、色んな意味が含められてるんでしょうね。

その後、本能寺の変で織田信長が亡くなると、
ほとぼりが冷めた頃に堺へと移り住んで、武人ではなく茶人としての新たな人生を送るのです。

道糞(村重)は、茶人としての腕前もなかなかで「利休七哲」にも数えられてました。

その後、荒木村重こと茶人『道糞』として、              再び天下人となった羽柴秀吉改め『豊臣秀吉』と再会することとなります。

その際、豊臣秀吉は荒木村重の武人としての過去について知っているので 名前を『道糞』から『道薫』という名前をつけてあげたそうです。

もしかしたら、秀吉は「自分は寛容な人間である」ということを
見せたかったのかもしれません。

その後、荒木村重こと『道糞』は、秀吉に気に入られますが、
道糞は、豊臣家家臣との折り合いも悪く、秀吉の悪口も
公言していたこともあり、間もなく出家してしまいました。       道糞(村重)なりの抵抗(復讐)だったのかもしれません。

そして、ひっそりと52年の人生を全うしたとのことです。

ここで、やっぱり謎なのは、
なんで荒木村重が突然、織田信長に対して謀反を起こしてしまったのか?

実は、中山清秀は、誰か(秀吉や官兵衛?!)のスパイまたは工作人ではなかったのか?

村重の妻『だし』は、最後になんであんな風に気高く、神々しく散ることが出来たのか?

荒木村重こと『道糞』は、なんで堺に戻って豊臣秀吉と再会したのか?

など、個人的な疑問が生まれました。

私が最初のほうに書いた、
歴史は、その時の権力者(勝者)によって、自分たちに
都合がいいように内容を操作されて、それが後々まで
伝わってしまう危険があり、

「事実(点)は変えられないが、線(内容)は伝える側次第で変えられる」

というのがあるので、私が勝手に描いた疑問が少しずつ解明されれば、  新たな荒木村重を知ることが出来るので、新たな事実が分かることを   期待して終わりにします。

では、また~!


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