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自分たちが苦労してきたんだから、これからの人も我慢すべきだ、という人と自分たちが苦労してきたのだから、これからの人には楽させてあげたい、という人の間にはなんの違いがあるんだろう

昔祖母が

私も姑にいじめられきたから、自分も嫁をいじめるんだ

と言っていてドン引きした記憶がある。

え?これって慣習ですか?

びっくりだけど、実はこういう考え方って世の中にたくさんある。

少し前にフリースクールの件で発言していた市長さんも

自分たちも我慢して通ったのだからと言っていたし。

今回は少々語気荒く語っております。この人トラウマでもあるのかしら?(そうです)と思いながら読んでもらえればいいかも。

昔からこういう慣用句が苦手でした。

若いころの苦労は買ってでもしろとか
いばらの道を選べとか。

そうやってコントロールしようとする人が本当にイヤ。

この苦しみが糧となるとかね
ぜったいうそやん。

そういう人たちは自分たちはがんばって我慢して耐え抜いたから偉いと思っているんだろう。

我慢は美徳ってやつだ。

そしてそうできない人たちのことを
ワガママとか
我慢が足りないとか
精神が弱いって思っているんだろう。

逆に自分たちは苦労してきたのだから、これからの人にはそんな苦労をかけたくない、と考える人もいる。

前者と後者にはどこに違いがあるのか考えてみた。それは

その時の感情に蓋をしたか、受け止めたかの違いによるものなんじゃないだろうか。

例えば

学校が辛くてたまらなかったのに誰にも相談できず、我慢して通い続けた人がいて

本当は苦しくてもうイヤだと叫びたかったのに、そんなことを思うのは精神が弱いからだとその気持ちに蓋をしてしまった人は、

学校に行けないのならフリースクールだなんだと他の人に選択肢が用意されることが腹立たしい。

自分はあんなに我慢したのになんだ!という感じ。

もしその時

自分の気持ちを受け止めてあげていたら

自分がそう思うことを許してあげていたら

きっと感じ方が変わってくる。

かくいう私も子どもの時ずっと我慢して
寂しいとか悲しいという感情に蓋をしてきたものだから

ににくんやべちくんがワガママに見えてしかたなかった時期があった。

簡単に言ってしまえば

泣くのを我慢した人は泣く子が弱虫に見えるし、痛くても痛いと言えなかった人は痛いと訴える人が大袈裟で弱く見える。

本当は自分も泣きたかった。
本当は自分も甘えたかった。
本当は自分も守られたかった。

そう思えることを許せたら、人はもっと人に対して優しくなれる気がする。

そう考えると昭和ってなんだかどんでもない時代だったような。

努力!根性!精神論!

バカみたいだと憤ってしまうワタシは、きっとまだトラウマが解消できていないんだろうなあ。







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