見出し画像

「The Star-Spangled Banner」 ホイットニー・ヒューストン

アメリカのフットボール決勝戦はスーパーボウルという大規模なスポーツイベントとして開催される。そしてその開会式では、その年に活躍したトップアーティストによって国歌斉唱が行われるが、これまでビリー・ジョエルやマライア・キャリーなどの有名アーティストがその舞台に立っている。しかし、歴代のアーティストの中でも最高の名演と言われているのが、1991年のホイットニー・ヒューストンによるパフォーマンスだ。というかアメリカ建国以来、この国の国家である「The Star-Spangled Banner」をこれほど感動的に歌い切った例は他になく、後世においてもあるとは考えにくい。

ホイットニー・ヒューストンは1985年にデビューしている。当時はマドンナやシンディ・ローパーなど本格的な女性シンガーが台頭しはじめた時期であったが、ホイットニーが彼女らと異なっていたのは、ゴスペルをバックグラウンドに持つ黒人女性だったということだ。当時の黒人女性シンガーというと、ソウル/R&Bやもう少しマイルドなブラック・コンテンポラリーのようなジャンルでデビューするのが定石だったが、教会の申し子だった彼女はゴスペルのパワーと技術を、そのままポップ・ミュージックの世界に持ち込んだのだ。それは60年代のブリティッシュ・ロックの世界にジミ・ヘンドリックスが登場した時のような衝撃だったろう。1億枚以上という桁違いのアルバムセールスがその破壊力の大きさを物語っている。
しかし、現代的な視点で見ると、彼女の作品の多くは当たり障りのないポップソングに聴こえ、当時流行りの女性シンガーのひとりという印象が強い。これはもちろん販売戦略が功を奏した結果であるが、史上稀に見るヴォーカリストの真の姿が隠されてしまっているようにも見える。
この「The Star-Spangled Banner」はまさにそのキャリアの絶頂期を迎えようとしていた彼女が、商業的な枠組みから解放され、すべての技術と情熱をストレートに表現することができた奇跡のパフォーマンスだったのだ。

"おお、あなたには見えるだろうか"

7万人の観衆に囲まれ騒然とした雰囲気の中、ホイットニーは厳かに歌い始める。彼女の歌声を引き立てるマーチングバンドの伴奏も良い。荘厳ながらも母のような慈愛に満ちた歌声にすぐさま釘付けになるだろう。
もともとが米英戦争の攻防戦をイメージした曲であるため、その曲調は激しいのだが、ホイットニーが見せる情景はさらに激烈だ。

"ロケット弾は赤く光り、爆弾が炸裂する"

その熱唱はまさに観衆の頭上に炸裂しスタジアムを眩く照らす。その場にいた人々は人智を超えた怒涛のような輝きを放つ彼女に恐怖すら感じただろう。クライマックスでは猛々しさを超え、神が人の声で語るのが聞ける。

"星条旗ははためいているか 自由の大地と勇者の家に"

このパフォーマンスはYouTubeでも動画が見れるのだが、会場には多数の兵士が並び異様な緊張感が漂うのがわかるだろう。このスーパーボウルが行われたのは、湾岸戦争でアメリカがイラクに出兵した直後であり、世界が不安と緊張に震える中で行われたパフォーマンスだったのだ。
ホイットニーが歌った素晴らしい「The Star-Spangled Banner」は、兵士たちに勇敢さを与え、米国民に覚悟を決めさせただろう。ある意味、彼女の歌声は数千発分の砲撃に相当したのかもしれない。プロパガンダの恐ろしさに戦慄もする歴史的な名演である。

今では湾岸戦争を肯定的に思う人は少ないだろう。しかし、この戦争によってアメリカは安定したエネルギーのサプライチェーンをギリギリ確保し、後のシェール革命まで石油資源の供給を維持することができた。中東が不安定化した一方、アメリカとその貿易国が繁栄の恩恵を受けたことは否定し難い事実だ。
ホイットニーもまた、そうした911以前のアメリカの中で成功を享受したひとりだった。それゆえだったのだろうか、2000年代に彼女の音楽活動は停滞がちになり、2012年には早過ぎる死を迎える。ドキュメンタリーなどでは彼女の晩年は悲劇的に伝えられることが多い。それらすべてが嘘ではないだろうが、ことさらに悲惨さを強調するのは、そうでなければ成り立たないビジネスがあるからなのだろう。だが晩年のスキャンダルは、彼女の美しさと輝きを損なうものでも、引き立てるものでもない。彼女の尊厳を傷つけるようないかなる行為にも関わりたくないものだ。

このスーパーボウルでの国歌斉唱は、YouTubeや各種サブスクリプションサービスで聴くことができる。特にハイ・レゾリューションに対応したサブスクがおすすめだ。CDやレコードのような何らかの形に残るものが欲しい人もいるだろうが、その心配はまったく無用だ。一度でも聴けば彼女の歌声は永遠にあなたの心に残るだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?